2014年9月30日火曜日

マインドフルな9月30日

「ずるい」という感情があります。
自分はこんなに努力したり公平にやっているのに、だれかが自分を出し抜いて得をしてしまう、といったとき、その人のことをずるいと思い、ときには憎しみを抱いたりします。
人はだれでも、公平さとか公正さとか平等であることが大事だと思っていますが、「ずるい」という感情が生まれたときにはちょっと注意をはらう必要があります。
「ずるい」は自分と他人との比較から生まれます。
自分はまじめにやっているのに、あの人は適当に人を出しぬいて得をしている、といったふうに。
比較からはなにもよいものが生まれません。

マインドフルの練習(278)
手のひらになにか尖ったもの(箸の先とか鉛筆とか)で字を書いてみましょう。
実際に文字が描かなくてもかまいません、なぞるだけです。
たとえば、手のひらに自分の名前を書いてみましょう。
つぎに、目をとじておなじことをしてみましょう。
どんな感じですか?
違いはありますか?

2014年9月29日月曜日

マインドフルな9月29日

人は悲しいと泣いたり、楽しいと笑ったりします。
自分のリアルな体験で泣いたり笑ったりするのは当然ですが、人間は概念や想像でも泣いたり笑ったりできます。
悲しくて泣く、という体験をパターン化したり概念化したりして、それとおなじパターンや概念を(読書や映画、劇などで)与えられると、反射的に泣いたり笑ったりしてしまいます。
自分が泣いたり笑ったりしていることが、いまこの瞬間の体験なのか、あるいはパターンや概念に応じているだけなのか、ちょっと客観視してみることも必要かもしれません。

マインドフルの練習(277)
十円玉でも百円玉でも、なんでもかまいませんが、硬貨をひとつ用意します。
それをまず、右手の人差し指と親指のあいだに、立ててはさんでみます。
すこし力を加えてみます。
その感触を味わって覚えたら、つぎに左手に持ちかえて同じことをやってみます。
感触はどう変わりましたか? 重さ、硬さ、触感、なにか変わった感じはしますか?

2014年9月28日日曜日

マインドフルな9月28日

歳をとると涙もろくなる、といいますが、それは感受性とは関係ありません。
年齢を重ねると経験が増え、またその記憶や、反応パターンも蓄積されていきます。
涙が出る、という反応にもパターンがあり、それにはまるとつい「涙ぐんでしまう」という現象が起こるわけですが、年齢はその反応パターンを増やします。
だから歳をとると涙もろくなる人が増えるわけです。
むしろ自分がパターンにはまって無自覚に反応してしまっていないかどうか、注意深く自分自身を検証してみる必要があります。

マインドフルの練習(276)
階段をのぼるとき、どちらの足から先にあげていますか?
右足、左足、どちらか決まっていますか? それともそのつど気まぐれですか?
いずれにしても、ふだんどのように自分が階段をのぼっているのか、あらためて観察してみましょう。

2014年9月27日土曜日

マインドフルな9月27日

よく、歳を取ると感受性がにぶくなる、といいます。
それは本当でしょうか。
たしかに歳を取ると筋肉をはじめとする肉体はおとろえていきます。
しかし、なにかを感じとる力がおとろえるとは、私にはどうしても思えないのです。
それは私の実感でもあります。
若いころよりむしろ鋭敏になった感覚はありますし、ものごとにたいして緻密に、そして繊細に注意を向けられるようになったとも思います。
もし感受性がにぶるとしたら、「自分は歳をとってにぶくなった」というあきらめというか、怠惰な態度によってそうなるのかもしれません。

マインドフルの練習(275)
虫の声がよく聞こえる季節になりました。
とくに夜はまわりが静かなこともあって、よく聞こえます。
よく聞いてみると、虫の声は一匹一匹が違っています。
リズムが違う、音程も微妙に違う、音色も違っています。
それらを注意深く聞きとってみましょう。

2014年9月26日金曜日

マインドフルな9月26日

だれかに対して「謝ってほしい」と思っているとき、こちらには怒りがあります。
不利益をこうむったこと、侮辱されたこと、ないがしろにされたことなど、さまざまな理由でこちらが大事にしていることが損なわれ、それをつぐなってほしいという気持ちが怒りとなって相手に向けられるのです。
しかし、相手が謝罪したからといって、あなたの損なわれた価値は満たされません。
自分の価値や必要性は、相手の謝罪によってではなく、自分のおこないによってしか満たすことはできないのです。

マインドフルの練習(274)
人がたくさん歩いている場所、たとえば交差点のようなところで、ふと立ち止まって、まわりを観察してみてください(人があまり歩いていない田舎だと難しいかな?)。
歩いている人をひとりひとり観察してみます。
どのような歩き方をしていますか?
せかせか歩いている人、ゆったり歩いている人、前かがみな人、胸を張っている人、荷物を抱えている人、背中が曲がっている人、よちよち歩いている人、いろいろな歩き方があると思います。
あなたに似た歩き方をしている人を見つけられましたか?

2014年9月25日木曜日

マインドフルな9月25日

いっしょに仕事しているチームのだれかが、病気かなにかやむをえない理由で仕事を休んだとき、「ちっ」という気分になることがあります。
自分の仕事の負担が増えたり、楽しみにしていた休みが取れなかったりします。
そんなとき、気のおけない相手だと、つい「なんでこんなときに病気になんかなるんだよ」と責めることばを使ってしまいます。
相手だって病気になりたくてなったわけではないことはよくわかっているんですが。
そんなとき、「きみも仕事に貢献したり仲間とのつながりが大切にできなくてくやしいんだね?」と共感してみます。
相手が病気が回復して職場復帰したとき、前者と後者とではどちらが能力を発揮できるでしょうか。
そしてどちらのほうがあなたにとってハッピーでしょうか。

マインドフルの練習(273)
お風呂でお湯に肩までつかっているとき、体重は軽くなっていますね。
それでもお尻や背中、足は湯船の底や側面に接して身体を支えています。
その部分に注意を向けながら、ゆっくりと息を吐いていきます。
浮力がすくなくなった身体は、ほんのわずか、重さを増すでしょう。
逆に息を吸ってみましょう。
呼吸による浮力の変化を楽しんでみてください。

2014年9月24日水曜日

マインドフルな9月24日

「謝罪」という行為は本来、自分が犯した誤りを認め、相手にこうむらせてしまった不利益を心からおわびするという「いま現在」のこちら側の気持ちを伝えるものです。
しかし、現代社会において、ときに謝罪は、「自分の優位性」を確保するために相手に要求することがあります。
いうまでもなく、社会構造のせいですね。
競争、比較、効率、成長などの原則でうごいている社会構造においては、人よりすこしでも「上」に立つことが有利になります。
だれかの話を聞いてアドバイスしたり、分析したり、評価したり、非難したりするのも、自分が相手より「上」に立という無意識の働きのためです。
「謝れ」といっているとき、その相手はこちらより優位な位置を確保することで安心を得たいのです。

マインドフルの練習(272)
「気をつけ」の姿勢で立ち、「前にならえ」と両手をピンと前に突きだしてみてください。
呼吸はいっぱいに吸います。
全身が緊張していると思いますが、そこから息を吐きながら、姿勢はたもったまま、両手と肩から力を抜いてみてください。
どのような姿になりますか?

2014年9月23日火曜日

マインドフルな9月23日

「謝罪」という行為は扱いに注意が必要です。
よく古いタイプの営業マンで、なにかミスをおかしたとき、顧客にひたすら「低姿勢で謝罪する」という態度で接する人々がいます。
なにをいわれてもひたすら「申し訳ございません」と低姿勢であやまりつづけ、それ以外のことは一切しないという、いわばマニュアル化された対応です。
顧客はけっしてすっきりしないけれど、むこうが謝罪しているからにはそれ以上強いこともいえず、もやもやと許して引っこむことになります。
「謝罪」というのは、場合によっては「謝っているんだからそれ以上こちらを責めるなよ」というメッセージに聴こえることがあります。
注意したいですね。

マインドフルの練習(271)
街を歩いているとき、あるいは電車に乗っているとき、いつもは見すごしている「活字」に注目してみましょう。
あなたのまわりにいったいどのくらいの活字がありますか?
いつも目にはいっているのになんて書かれているか気づきもしなかった文字がたくさんあるかもしれません。

2014年9月22日月曜日

マインドフルな9月22日

「効率」というと、ものごとが支障なく進んだり、時間が節約できたり、といったことを思いうかべますが、それは私たちがこの経済社会のなかで身につけてきたかんがえ方の「癖」のようなもので、本当の意味の効率ではないかもしれません。
では、本当の効率とはどういうものでしょう。
それはまさにマインドフルネスのなかにあるのではないかとかんがえます。
いまこの一瞬一瞬のなかで自分とまわりのありようを感じながらすごすこと、おこなうこと、交流すること。
この時間密度を私たちはともすれば損ないがちです。
それこそ生きることの「効率=密度」を損なってしまっているといえないでしょうか。

マインドフルの練習(270)
ちょっと行儀が悪いですが、練習のために新聞や雑誌、本などのページを足の指でめくってみましょう。
右足、左足、どちらでもかまいません。
足は手にくらべてだいぶ不器用なので、苦労するかもしれません。
ページがめくれる/めくれないという結果より、自分の足がどのように動くのか、あるいは動かないのか、その過程でじっくり観察してみましょう。

2014年9月21日日曜日

マインドフルな9月21日

人には「効率のニーズ」というものがあります。
ものごとが効率よく運んだり、自分の学びや行動が効率よく進んだり、といったことを必要と感じることがよくあります。
このニーズは比較的表面的なニーズで、さらにその奥には別の必要性が隠れていることがあります。
なにかが効率よく進むことで、あなたのどういう価値が守られるのか。
たとえば仕事の効率によって自分の能力を発揮することや、そのあとに来る休息や自由の価値を守ろうとしているのかもしれません。
ときには効率はニーズではなく、その奥にある価値を守るための手段そのものになることもあります。

マインドフルの練習(269)
スプーンを手に取って、目の前にかざしてみます。
スプーンのへこんだほうを自分のほうに向け、そこになにが映っているか観察します。
そこには逆さになった自分の顔が映っているかもしれませんし、背後の電球が映りこんでいるかもしれません。
それをただ観察しながら、スプーンを左右にゆっくり動かしてみましょう。
スプーンのなかの景色が動くでしょう。
それをただ観察し、目で味わってみます。
そのとき、自分の呼吸にも注意を向けることを忘れないようにしましよう。

2014年9月20日土曜日

マインドフルな9月20日

「これはあなたのためなのよ」と親や上司、友人などからいわれることがあります。
こちらはつい、その期待や相手の尽力にこたえようと、力んだり、責任を感じたりしてしまいます。
しかし、その行動は自分の内側にある動機と結びついたものではないので、十全に力を発揮することができません。
そのようにして、ごく幼いころから親や教師との関係性のなかで自分をそこないつづけてきた人はとても多いように思います。
たまたま「できる」子はのびのびと成長していきますが、そんな人ばかりではありません。
そのようにいわれたとしても、相手はそういうことで自分のなにかの必要性を満たそうとしているだけなので、そちらに目を向けてみます。

マインドフルの練習(268)
椅子にすわり、背骨をまっすぐに立てます。
その状態で背骨を動かすことなく、顔(頭)を右、そして左へとゆっくりと向けてみます。
つぎに顔(頭)を上、そして下へとゆっくりと向けてみます。
頭と背骨が接している部分のあたりが、柔らかな蝶番(ちょうつがい)のように動いているのがわかりますか?
背骨の一番上のこの部分は第一頚椎が「環椎」、第二頚椎が「軸椎」といって、大変可動域の大きい関節となっています。

2014年9月19日金曜日

マインドフルな9月19日

「あなたのことが心配なのよ」と親や上司、友人などからいわれたとき、なんとなく重たい気分になるのは、上から目線を感じるからかもしれません。
「心配だ」といっているけれど、じつは自分が安心したいだけ、ということが多いのです。
自分が安心したいために、相手の行動をコントロールしようとすることはよくあります。
相手には相手の都合や、大切にしていることがあります。
それをこちらがコントロールすることはできませんし、しようとしても失敗したり衝突するだけです。

マインドフルの練習(267)
輪ゴムを両手の親指と人差し指につまんで、左右に引っ張ります。
ゴムが伸びてピンと張りますね。
その状態をキープします。
そのとき、輪ゴムではなく自分の身体に注目を移してみましょう。
輪ゴムを伸ばすのに必要な筋肉以外に、身体のいろいろなところに緊張が生まれていることに気づきませんか?
もし気づいたら、それをひとつずつ丁寧にほどいてみましょう。

2014年9月18日木曜日

マインドフルな9月18日

自分の価値観を大切にし、自分にとって必要なことを正直におこなおうとすると、だれかと衝突することがあります。
なぜなら、そのだれかにも大切にしている価値観があるからです。
しかしそこでお互いに尊重の気持ちを持ち、誠実に、正直にお互いを表現し、価値観を認めあうことで、ことなっている価値観を損なうことなくなにごとかをおこなう方法がないかどうか、その手段をいっしょになって考えることができます。
敵対関係から恊働関係になるのです。

マインドフルの練習(266)
深呼吸をしてみます。
私たちは子どものころからラジオ体操などで、深呼吸というとまず「大きく息を吸って」というところから始めるように習い、それが習い性にもなっています。
まず、そのとおりに深呼吸してみてください。
つぎに、それとは逆に、まず大きく息を吐くところから始めてみてください。
どんな感じですか? 違った感じがしますか?

2014年9月17日水曜日

マインドフルな9月17日

だれかがあなたにとって都合の悪いことをしたりいったりしたとき、あなたはその相手のことを「敵だ」と決めつけたり、「信頼できない」と思ってしまいます。
ところで、だれかを「信頼できる」というのは、どういう状態でしょう。
「この人は信頼できる」と思っているとき、あなたのなかにはどのような基準やかんがえがあるんでしょう。
だれかを信頼する/できるというのは、その相手が自分にとって都合のいいことをしてくれるからではありません。
その人が自身の価値観や必要性に忠実であり、またそのことをこちらに伝えることに誠実であるかどうかが大切なのです。

マインドフルの練習(265)
紙飛行機を作って飛ばしてみます。
それは予想どおりの航跡で飛んだでしょうか、あるいは予想外の航跡を描いたでしょうか。
もう一度飛ばしてみます。
先ほどとおなじ航跡で飛んだでしょうか、あるいは外れたでしょうか、そしてあなたはその航跡をあらかじめ予想してから飛ばしたでしょうか。
三度めに飛ばすとき、なにもかんがえず、予想せず、飛行機の飛ぶようすだけをただマインドフルに追って観察してみましょう。

2014年9月16日火曜日

マインドフルな9月16日

人それぞれちがった感想があるかもしれませんが、私はいまの季節――秋が一年のうちでもっとも「におい」の豊かな季節のように感じています。
金木犀《きんもくせい》や菊など花や植物のにおい、たき火のにおい、焼き魚のにおい――そういったものはほかの季節にもあるのかもしれませんが、とくにいまの季節によく感じ、気づくように思います。
みなさんはいかがでしょう。

マインドフルの練習(264)
両手を目のまえにあげ、人差し指と中指で「チョキ」の形を作ります。
左右ふたつのハサミができました。
まず右手のハサミでなにかを切るようにチョキチョキしてみてください。
速くやろうと思うと、意外に自分の指が思うように動かないことに気づくかもしれません。
つづいて左手のハサミでもチョキチョキしてみてください。
右と左ではチョキチョキの速さやスムーズさはおなじですか? それとも違っていますか?

2014年9月15日月曜日

マインドフルな9月15日

マインドフルというのは、いまこの瞬間の自分自身とまわりのことに「気づきつづける」ことです。
瞬間瞬間、自分が呼吸をし、生きて動き、存在し、まわりと関わりつづけているということをつかんで離れずにいられることです。
マインドフルネスの実践が深くなると、じっとしていても自分がたえまなく動き、流れつづける存在であり、まわりもまた変化し、流れつづけていることに気づけるようになります。
一瞬としておなじ状態はありません。
それはひとりひとりがそのような状態であり、人同士の関係もしたがって動き、流れゆくものであるということです。
だからこそいまこの瞬間がいとおしく、貴重に感じるのです。

マインドフルの練習(263)
お風呂でお湯につかったとき、勇気を出して頭まで沈んでみましょう。
目の上までお湯に沈みます。
目は閉じてなにも見えなくなるかもしれませんが、耳もお湯につかり、聴こえる音が変化します。
それをしばらく聴いてみましょう。
お湯のなかでどんなふうに音が聞こえますか?

2014年9月14日日曜日

マインドフルな9月14日

行《ぎょう》とまではいわなくても、毎日決まった時間に決まったことをする習慣は、ときに役にたつことがあります。
たとえば、朝起きたらまず布団をあげ、顔を洗い、お茶をいれて、ひと息つく。
たったこれだけの習慣でも、それをマインドフルにおこなうことでさまざまな気づきがあるでしょう。
なぜなら、ただ一日として私たちの状態がおなじということはありませんし、時間もながれ、環境も変化しつづけています。
お茶をいれて飲む、というおこないのなかにも、昨日とはちがった感じがあるかもしれず、またお茶を飲む自分自身に注意を向けることで、体調の変化を感じとるかもしれません。
体調が低下していることに気づけばそのことに対処して一日をすごすこともできますし、大きな故障にいたらずにすむかもしれないのです。

マインドフルの練習(262)
お風呂にはいったとき、ちょっとした冒険をしてみましょう。
普通はお湯に胸や肩までつかると思いますが、それよりもっと身体を沈めてみましょう。
首、顎《あご》、そして口、鼻までお湯に沈めてみます。
当然呼吸はできません。
息をこらえて目から上だけお湯の上に出して、しばらくその感じを味わってみます。
お湯につかり、息を止めているときの「静けさ」を味わってみましょう。

2014年9月13日土曜日

マインドフルな9月13日

私たちは「変化すること」が「よい」という価値観が幅をきかせている時代に生きています。
変化し、進歩し、発展し、向上する、そういった価値観が強迫観念のように私たちにたえまなく迫ってきます。
経済は発展する、テクノロジーは進歩する、変化と刺激に満ちた人生を送りたい、友だちは増やしたい、そうやって生きていくなかで、多くの人がへとへとに疲れています。
変化は「よい/わるい」という価値判断ではなく、ただ「ある」のです。
なにもしなくてもあります。
人はなにもしなくてもたえず変化しつづけますし、私たちを取り巻く環境もまたそうです。
そのことを見極めるために、毎日、決まった時間に決まったことをする、という行《ぎょう》があるのです。

マインドフルの練習(261)
みなさんは毎日顔を洗いますね?
手順が決まっていて、ほとんど無意識に洗っていると思いますが、時々手をとめて、意識的になってみましょう。
両手に水を受けたら、そこでちょっと動作をとめて、自分の呼吸に注目します。
それから息を止めますね。
そして顔を水で洗います。
そのとき、水の感触と同時に、呼吸を止めている自分の身体全体のようすを観察してみましょう。

2014年9月12日金曜日

マインドフルな9月12日

永平寺などのお坊さんの修行風景に、毎日早朝から床みがきをする、というものがテレビなどでよく紹介されたりします。
それを見て、毎朝大変だなあ、毎日決まった時間に決まったことをするのは、精神と肉体を養うための苦行なんだろうな、と多くの人は思っているかもしれません。
たしかにそれは修行の一環にはちがいありませんが、苦行というわけではありません。
あれは大切な「気づき」の時間なのです。
私たちはからだもこころも一日としてちがうことはありません。
またまわりの環境もそうです。
毎日決まった時間におなじことをするのは、そのことに気づきつづけるためなのです。

マインドフルの練習(260)
毎日、家を出るとき、なにもかんがえずに無意識にドアをあけていませんか?
今日はドアをあける前に、ちょっと立ちどまって、まず家のなかのにおいを確かめてみましょう。
それがすんだら、おもむろにドアをあけて外に出ます。
外のにおいはどうですか?
なんのにおいに気づきますか?

2014年9月11日木曜日

マインドフルな9月11日

以下、一般的にどこまで通用するかはわかりませんが、私がマインドフルネスで痛みを克服したごく私的な経験です。
歯科医院で歯石の掃除をしてもらいました。
あれは施術者の腕や癖もありますが、時々かなり痛いことがあります。
また、痛いのではないかと心配していると、歯にばかり注意が向かって、呼吸がとまったり、全身が硬直したりしてしまいます。
こういうとき、マインドフルネスを心がけ、自分の深い呼吸を取りもどし、それに注目します。
同時に、自分の身体全体のありように観察の目をむけます。
自分自身の「全体性」を感じるようにするのです。
すると、痛みは「全体の一部」として存在することがわかります。
これはたえがたい痛みのときにはむずかしいかもしれませんが、ちょっとした痛みをやりすごすにはとても有効な方法だと感じています。

マインドフルの練習(259)
雑巾や布巾を洗って絞るとき、どのようにしていますか?
なにげなく雑巾を絞ろうとしていると、ちょっと手をとめてみてください。
手を持ちかえて、いつもとは違う方向で雑巾を絞ってみてください。
どんな感じがしますか?

2014年9月10日水曜日

マインドフルな9月10日

急に涼しくなって、体調を崩し、風邪をひきかけたのか偏頭痛に襲われました。
頭痛や歯痛、腹痛、あるいは怪我などの痛みがあるとき、マインドフルネスは役に立つでしょうか。
やってみればわかると思うのですが、マインドフルネスを心がけ、自分のいまここの身体に意識を向ければ向けるほど、痛みが強調され、たえがたくなることがあります。
マインドフルネスは基本的に、感覚を鋭敏にするからです。
痛みから注意をそらし、気をまぎらわせるのがいいときもあります。
しかし、マインドフルネスがいつも痛みをやりすごすのに役に立たないかというと、そうでもありません。

マインドフルの練習(258)
お風呂で身体を洗うとき、どこからはじめていますか?
頭から? あるいは逆に足から? それとも腕から?
腕を洗うとき、右手からですか? それとも左手からですか?
たいていほとんど無意識に手順化していると思いますが、ときにマインドフルネスを心がけてやってみましょう。
腕をいつもとは反対側から洗ってみましょう。

2014年9月9日火曜日

マインドフルな9月9日

頼まれごとをしてそれを断るとき、つまり相手に「ノー」というとき、自分の側にある「イエス」につながっておきます。
「今週末に真智子と京都旅行に行くんだけど、あなたも来てくれない? ふたりだとなんとなく緊張しちゃうんだよね」
というようなことを親友からたのまれたけれど、こちらも気が乗らない。
なぜ気が乗らないんだろう、今週末は休んでのんびりしたいんだ、それに真智子のことは私もちょっと苦手だ、緊張したくない、旅行するなら気楽さが大切だ、と自分の内側を見ます。
週末は休息と気楽さを大切にしたい(イエス)ので、親友のたのみはきけない(ノー)。
このようにノーとイエスはかならずセットでかんがえます。

マインドフルの練習(257)
お風呂にはいってお湯につかるとき、どちらの足を先にお湯につけますか?
両足同時という人はまずいないでしょう。
お湯につかるとき、いつもなにげなくやっている動作に注目してみてください。
いつも右足からはいることに気づいたら、今日は反対の足からつけてみましょう。
どんな感じがしますか?

2014年9月8日月曜日

マインドフルな9月8日

なにかを人から頼まれたとき、本当は気が乗らないのについつい断りきれなくて引きうけてしまうことがあります。
相手の役に立ちたい、という気持ちと、断ったら申し訳ない、という気持ちがわいて「ノー」といえないのです。
気が乗らないのに引きうけてしまったことは、うまくはかどらなかったら、途中で嫌になったり、終わってもなんだかすっきりしなかったりして、あまりいいことはありません。
そういうとき、自分が「ノー」といいたくなっている裏側の「イエス」を見てみます。
なぜ気が乗らないのか、いま自分がなにを大切にしているからそれをやりたくないのか、その自分の大切にしていること、必要性のほうに目を向けてみます。

マインドフルの練習(256)
両足を肩幅くらいに開いて立ちます。
両手を左右に水平にのばして上げます。
その状態で、まず右足に体重を移動させます。
つぎに左足に体重を移動させます。
それを交互に何度かくりかえしてみます。
重心が移動するにつれて、手と足の関係性が変化すると思いますが、それをつぶさに観察してみましょう。

2014年9月7日日曜日

マインドフルな9月7日

自分のことを語るのが好きな人がいます。
話しはじめると、とにかく自分のことばかり話したり、とくに自慢話ばかりつづく人がいると、こちらもいらいらしてきます。
そういうとき、その人はどういう必要性があって自分の話ばかりするんでしょうか。
あなたに自分のことをわかってほしい? 尊重してもらいたくて自分がえらいということをアピールしている? なぜその話は終わらない?
話が終わらないのは、相手がまだあなたに自分のいいたいこと、大切にしていることを受け取ってもらえてないと感じているからです。
あなたがいやいや聞いていたり、早く話が終わらないかなといらいらしていればいるほど、相手の話は終わらないでしょう。

マインドフルの練習(255)
半分ほど飲み物が残ったペットボトルを用意します。
ペットボトルの真ん中あたりを片手で持って、持ち上げます。
ゆっくりとペットボトルを横にして、水平にします。
掌の上にペットボトルが寝かされた状態になりますね。
そのとき、掌や指に感じる飲み物の冷たさや重さ、飲み物がボトルのなかで動いて重心が移動するようすなどを観察してみます。
ペットボトルを左右にゆっくり傾けてみるのもいいでしょう。

2014年9月6日土曜日

マインドフルな9月6日

だれかと「こんにちは」と挨拶をかわすとき、私たちはほとんど言語情報は交換していません。
私たちが相手に送ったり、相手から受け取っているのは、非言語情報です。
「こんにちは」ということば=音声がどのように発せられているのか、呼吸はどうなのか、相手の表情はどうなのか、動きはどうなのか、服装は、髪型は、全体の雰囲気は?
「こんにちは」という挨拶のなかで、相手がいまどのような状態なのか、機嫌がいいのか悪いのか、調子がいいのか悪いのか、こちらにたいして友好的なのかそうでないのか、などさまざまな情報を受け取り、また送っています。
これがコミュニケーションの本質といえるでしょう。

マインドフルの練習(254)
パソコンに向かっていつものように文字を打つ格好をしてみましょう。
なにげなく打とうとするとき、ちょっとそこでストップモーションになってみてください。
いま、どんな姿勢になっていますか?
さて、ストップモーションをいったん解除してふつうの姿勢にもどってから、あらためて自分の呼吸と姿勢に注意を向け、しばらく落ち着いて観察してから、自分自身の全体を感じながらふたたびパソコンに向かって文字を打ってみましょう。
どんな感じでしょうか。

2014年9月5日金曜日

マインドフルな9月5日

だれかとコミュニケーションをとるとき、人はじつに豊かな情報交換をしています。
コミュニケーションというと言語情報を注目しがちですが、たとえば「こんにちは」という挨拶をおたがいにかわすとき、そこにはどんな言語情報があるというのでしょうか。
この場合、言語情報はほとんど「ゼロ」といっていいでしょう。
では、なぜ私たちは「こんにちは」という挨拶をかわすのでしょうか。
このとき、なにを「交換」しているのでしょうか。
ここにコミュニケーションの本質が隠れています。

マインドフルの練習(253)
普通に立ち、片足を床からすこし離して片足立ちになってみます。
ちょっと不安定な感じになると思いますが、その感じをまず味わいます。
つづいて、いったん両手を床について、四つん這いになります。
膝をまっすぐ突っ張っているときついので、曲げて楽な姿勢で安定します。
そこからゆっくりと立ちあがります。
身体がまっすぐになったら、ふたたび片足立ちになってみます。
今度はどんな感じがしますか?

2014年9月4日木曜日

マインドフルな9月4日

「性善説/性悪説」といった二元論では、多面的で複雑な人間を理解できないことは明らかです。
人間を「性善」あるいは「性悪」という分類でラベリングすることは、人間理解をいちじるしくさまたげることにほかなりません。
どんな場面においても、人がどのように行動するかは、それぞれの立場や価値観、必要性によって変わってきますし、そこには人間社会から見て「性善」であったり「性悪」というように「ジャッジ」できる面もありますが、あくまでそれは一面的な見方にすぎません。
特定個人においても「あの人はいい人だ」「悪い人だ」という判断は、「自分にとって」とか「自分が属す社会にとって」という前提を持っていることを忘れないようにしたいものです。

マインドフルの練習(252)
まっすぐ立ちます。
呼吸に注意を向けたまま、両手を体面に並行に、つまり左右にまっすぐあげていきます。
前から見ると十字の形になります。
指先ができるだけ遠くに伸びるように、腕をまっすぐに左右にのばし、肩とおなじ高さになったらそこで維持します。
両手が指先から左右に引っ張られるような意識で、うんと左右に長く手を伸ばします。
しばらくそうやってから、ゆっくりと腕を体側にもどしていきます。
最後には力を抜いて、リラックスします。
どんな感じがしますか?

2014年9月3日水曜日

マインドフルな9月3日

「性善説」とか「性悪説」という言葉があります。
人の本質がそもそも「善」なのか「悪」なのか、という議論です。
さまざまな場面でこういったかんがえが登場します。
たとえば、最近、飛行機の離着陸時に、電波を発しない電子機器が使えるようになりました。
電波を発するケータイやスマホも機内モードにすれば使ってもいいということです。
しかし、その人が使っているスマホがいま機内モードなのか、着信モードなのか、どのように確かめるのでしょう。
こういうとき、性善説と性悪説が出てきて、それぞれの立場の人が意見をぶつけあいます。
あなたはどちらですか?

マインドフルの練習(251)
普通に立ちます。
右足をあげ、かかとを左足の甲の上に置き、体重をかけます?
痛いですか? ひどく痛いほど踏まなくてもいいですよ、軽く体重をかけてやや痛みを感じる程度にしておきます。
右足で左足を踏みながら、呼吸を思いだします。
どんな感じですか?
しばらく感受したら、足を反対に踏みかえてみます。

2014年9月2日火曜日

マインドフルな9月2日

インターネットやケータイ電話は人々とつながるのに大変便利なツールですが、それにどっぷりつかっていると気持ちが不安定になります。
なにか悲しいことがあり、フェイスブックなどに「悲しいことがあった」と書きこむと、友人たちがなぐさめてくれて悲しみがすこしいえたり、つながりを感じて安心します。
しかし、よく見ると、返事のほとんどはあなたに対するアドバイスです。
悲しいときはこうやって気をまぎらすといい、この本を読むといい、こんな曲があるよ、たいていはあなたに貢献したくてそのようにアドバイスしているのですが、アドバイスはこちらが必要としていないときには受けとることが重荷になります。
このように、自分に必要でもない情報がたくさんやってくることで、精神が不安定になってしまうのです。

マインドフルの練習(250)
両手をぎゅっと握りしめてみます。
なるべくかたく、強く、握りしめて、拳《こぶし》をかためます。
しばらく握ったら、力を抜きながら、指をできるだけゆっくりと開いていきます。
指をのばし、開いていき、最後はぴんとまっすぐにのばして、大きなぱーを作ります。
握った状態から開いていくとき、指や手の感触がどのように変化するのか、じっくりと味わってみてください。

2014年9月1日月曜日

マインドフルな9月1日

一日の終わりに、「今日はよい日だった」「充実した一日だった」とか、「今日は調子が出なかった」「予定がこなせなかった」などと振り返ったり反省したりすることがあります。
自分自身への評価をくだしているわけです。
しかし、人には調子のよいときも悪いときもありますし、ついているときもついてないときもあります。
めぐりあわせがよかったり悪かったりします。
一喜一憂せず、ただ自分の一日を俯瞰《ふかん》して、いまこの瞬間の自分自身を味わえばいいのです。
評価して喜んだり落ちこんだりしても、それはもう過ぎ去ったことであり、いまこの瞬間の自分自身とはすでに関係のないことなのです。

マインドフルの練習(249)
財布に硬貨がはいっていたら、それを出して、机の上などにならべてみます。
たとえば七つの百円玉があったとします。
それをいま、あなたはどのようにならべようとしていますか?
恣意的にならべるのではなく、いま自分がそれらをどのようにならべたがっているのか、自分自身のこころと身体にきいてみてください。
はっきりとした答えは聞こえないかもしれませんが、なんとなく一列にならべたくなった、とか、密着するように集めてならべたくなった、とか、浮かんでくるかもしれません。