2014年5月31日土曜日

マインドフルな5月31日

マインドフルネスの実践が浅い密度から深い密度へとたかまっていくのをどうやって知ることができるでしょうか。
時間の進みかたが変わったように感じる、とか、ものの見えかたが変わる、とかいろいろいわれますが、もっと簡単に知る方法があります。
自分の心地よさを見ればいいのです。
マインドフルネスが深まると静かな居心地のよさが生まれ、いらいらや怒り、あるいは期待感といったある種の「記憶や判断」によって生まれる感情が遠ざかっていきます。
ただここにいて、いまの瞬間、自分の生きて変化しつづけている事象そのものに触れていくことで、こころの快適さがつづき、深まります。

マインドフルの練習(155)
歩いているときの自分の身体を観察してみます。
自然に歩いていますか? それともどこかぎこちない感じがありますか?
どこか身体の「部分」に注目し、そこを意識したとき、歩きにはとたんにぎこちなさが生まれると思います。
たとえば「右手はどのように振られているのか」なとどかんがえ、右手の動きに意識を向けたとたん、歩きの自然さは失われます。
身体全体を感じるように、歩くという行為を自分の身体にまかせてしまったとき、自然でのびやかな歩きが生まれるかどうか、そこに注目してみましょう。

2014年5月30日金曜日

マインドフルな5月30日

マインドフルネスにはさまざまなレベルがあります。
深く自分自身と自分のまわりにつながり、一瞬一瞬気づきつづけている密度の高いマインドフルネスもあれば、呼吸に注目できている程度の浅いマインドフルネスもあります。
それこそ無数のグラデーションのように深さ、密度の変化がありますが、自分がどの程度の深さをもってマインドフルになっているかは、自分自身にしかわかりません。
自分のマインドフルネスの実践が深いのか浅いのか、それを自己評価するのではなく、より深いのか、より浅いのか、ただ感じ、ただつとめてみればいいのです。

マインドフルの練習(154)
片手を上にむかってあげてみます。
そのとき、手をあげることが「楽しい」ですか、あるいは「心地よい」ですか?
何度か方向や力のいれかげん、角度、速度などを変えながら、手をあげることをためしてみましょう。
そのとき「楽しさ」や「心地よさ」が自分のなかに生じるかどうか、繊細に感じとりながらこころみてみます。
どういう手のあげかたをしたときに、もっとも楽しく、心地よくなるでしょうか。

2014年5月29日木曜日

マインドフルな5月29日

自分になにができるのか、あるいはなにができないのか、を知ることはなかなか困難なことです。
ひとついえるのは、それはやってみなければわからない、ということです。
座して頭で「こうすればこうなるかな」「こんなふうにやればいいかな」と想像をめぐらしても、実際にものごとにあたってみると全然ちがうことになることはだれもがよくわかっています。
それなのに、事前にあれこれかんがえをめぐらせたり、たくらんだりするのは、まだ見ない未来にたいして怖れがあり、すこしでも不安を解消したいという気持ちが強いからでしょう。
いまここの自分自身につながることで怖れや不安が消えていく体験があります。

マインドフルの練習(153)
夕焼けを見ることがあります。
ちょっと立ちどまって、そのようすを観察してみましょう。
刻一刻と変化していく光景を、なるべく思考を手放し、ただ味わってみます。
そのとき、自分自身の呼吸とともにいることは有効です。
ゆっくりと深く呼吸し、そのことを感じつづけながら、空の変化を全身で味わってみましょう。

2014年5月28日水曜日

マインドフルな5月28日

「がんばる」というのは、いまある力以上に自分をふるいたたせ、使おうという行為です。
かんがえればわかることですが、そのように無理をしてもたいていのことはうまくいきません。
うまくいかないばかりか、失敗することすらあります。
自分の能力以上になにかを求めること、がんばることをやめ、自分の能力をすみずみまで発揮できるようにマインドフルに自分自身を用いること、それによって自分にできることはうまくできるでしょうし、できないことはできないでしょう(あたりまえですが)。
「人事を尽くして天命を待つ」というのはまさにこの心境ではないでしょうか。

マインドフルの練習(152)
夕方五時になると、地域によっては時報とかメロディが市役所や公共の建物から聞こえてくることがあります。
そのとき、ちょっとその音に意識的に耳を傾けてみましょう。
いつもは聞きながしていると思います。
今日はしっかりと聞いてみます。
どんな音ですか? その音はどんな質感ですか? どのくらいの距離に感じますか? 余韻はありますか?

2014年5月27日火曜日

マインドフルな5月27日

私たちは子どものころから、なにごとにも力を尽くすように、努力するように、がんばるようにいわれ、励まされます。
がんばっている子どもはほめられるし、たとえ失敗しても許してもらえることもあるので、ますますがんばります。
その習慣は大人になっても身について離れません。
がんばれば自分が成長する、ものごとの成功の確率があがる、そのように私たちは信じています。
しかし本当にそうでしょうか。
自分を成長させ、なにごとかの成就の可能性を高めるには、その方法しかないのでしょうか。
がんばることをやめてみるとどうなるんでしょうか。

マインドフルの練習(151)
「あー」と長く声を出してみます。
大きな声でなくてもかまいません。
ごく普通に、ただ長く発声してみます。
つぎにおなじ「あー」を、両耳を人差し指の先でふさいで発声してみます。
聞こえ方が変わりますね?
どのように変わりましたか?
どんな感じがしますか?

2014年5月26日月曜日

マインドフルな5月26日

「私」の存在する理由はわかりませんが、「私」の存在そのものは実体です。
そして「私」という実体がどこに行こうとしているのか、なにを求めているのか、どんなことに価値を置いているのかは、「私」自身が示してくれます。
しかし、その声は聞こえるか聞こえないか、あるかないかという、非常にかすかなものです。
私たち人間が作り出す思考や社会性などが、その声をさらに聞こえにくくしています。
私たちは自分の実体である生命活動の深淵から聞こえる声に耳をすます練習をする必要があります。
その練習のひとつがマインドフルネスをこころみることでもあります。

マインドフルの練習(150)
左右の耳の穴にそれぞれ人差し指の先を突っこんで、ふさいでみます。
なにが聞こえますか?
それはどんな音ですか?
あなたの身体のなかの音も聞こえますか?

2014年5月25日日曜日

マインドフルな5月25日

私たちはなぜこの世に生まれてきたのでしょう。
その答えはだれもわかりません。
観念的に「こうだ」と述べたり、宗教的に教示することはできますが、実際に自分のなかをのぞきこんでみると、本当のところは「わからない」というのが正直なところです。
しかし、その世に生まれ、生きている「私」が、わからないままに動き、関わり、喜んだり悲しんだり怒ったりしている具体的事実は存在します。
その具体的なことが、「私」の存在そのものを示しています。
観念ではなく、具体、つまり身体そのものが、「私」の行く方向を見せてくれているのです。

マインドフルの練習(149)
目薬をさすとき、どのようにしていますか?
いろいろな方法があるようです。
私は顔を上に向けて右手でまぶたを広げ、そこへ左手で目薬を落とすようにしています。
片手だけでやる人もいれば、目尻の端から流しこむようにする人もいます。
ちょっと勇気がいるかもしれませんが、一度、顔を上に向け、目を大きく開いて、目薬の瓶をまっすぐ見ながら、ゆっくりと目薬を受け止めてみてください。
目薬はちゃんと眼球に落ちましたか? あるいは目からはずれてしまいましたか?

2014年5月24日土曜日

マインドフルな5月24日

「瞑想」ということばを辞書で引くと、「目を閉じて心を静め、無心になって想念を集中させること」とあります。
一般的にもだいたいこのような理解がされているでしょう。
しかし、私が推奨している瞑想法では、目を閉じることはしません。
釈迦像などの仏像は瞑想の状態をあらわしていることが多いですが、それらは目を閉じていません。
よく見ると、目を半眼にして、どこを見るともなく見ています。
瞑想では視覚を遮断することなく、ほかの感覚と同様に外界とつながった状態で、外界からの情報をさえぎらずに自分の内側に流れこむままにしておこなうのがいいのです。

マインドフルの練習(148)
静かにすわって座骨を座面に直角に立てます。
こうすると自然に背骨がまっすぐ上へとのびます。
けっして背中を反り返らせないでください。
自然に脊柱が立ち、上へとのびるようにこころがけてください。
この姿勢で、まず自分の呼吸を観察します。
骨盤が後ろに寝ていたり、逆に背中をそらせることで前に倒れたりしていると、呼吸の自由度がそこなわれることを確認してみてください。

2014年5月23日金曜日

マインドフルな5月23日

よくある設問ですが、「今日があなたの人生で最後の一日だったとしたらなにをしますか?」というものがあります。
これは「仮定」の設問であり、実際にそうなるかどうかはこの一日がすぎてみないとわからないのですから、「なにをするか」という想像も仮定のものになります。
実際にはいまこの瞬間が最後の瞬間であり(それはもう二度と経験することはできません)、また同時に最初の瞬間でもあります(一度も経験したことをまさにいま経験しています)。
いまこの瞬間をマインドフルに味わい、生きることだけが、本当の意味で「生きること」そのものなのです。

マインドフルの練習(146)
タオルか手ぬぐいを一枚、用意します。
広げて、左右の手で両端を持ち、ピンと張ります。
両手で広げたタオルはどんなにがんばっても決して静止することはありません。
いくら止めようと思っても、わずかに動いてしまいます。
タオルを見ながら、その動きを味わってみましょう。
その動きが、あなたの生命活動の反映であり、決して止むことのない命の動きです。

2014年5月22日木曜日

マインドフルな5月22日

人には純粋な「成長のニーズ」があります。
それは生まれつき、本能にプログラムされているといっていいでしょう。
なぜなら、それがなければ人は生き残ることができないからです。
赤ん坊を見ればわかりますが、だれも教えないのに、動き、泣き、聞き、見て、成長し、立ちあがり、話し、関わろうとします。
この成長のニーズは大人になっても死ぬまで失うことはありません。
人には想像力や思考、記憶があるので、なんらかの「そと」の理由で自分が成長したいという気持ちを見失うことがありますが、それはしっかりと自分の「なか」にあるのです。

マインドフルの練習(145)
ある場所から別の場所へ移動するとき、移動時間をはかり、目的地についたときどのくらい時間がかかったのか、体感で予測してみます。
それから時計を見て、実際にかかった時間とのずれを確認します。
つぎに、おなじ移動を、マインドフルを心がけ、自分の呼吸や身体全体、そしてまわりのことや「いまここ」ら意識を向けながらおこないます。
そのときにどのくらい時間が経過したか、体感であててみてください。
マインドフルをこころがけたときとそうでないときとで、時間の経過に体感の差があるかどうか、こころみてみます。

2014年5月21日水曜日

マインドフルな5月21日

だれもがいつも「よりよい自分」になりたいと望んでいます。
成長のニーズがあるからです。
もしそう思わない人がいたとしたら、成長のニーズがなんらかの理由で阻害されていたり、そのニーズにつながることが難しくなっているからでしょう。
たとえば、たくさんがんばって努力をしてきたのに、人に認められないとか、競争で勝利できなかった、などの理由で成長のニーズをそこなわれ、もう一度それにつながる気力を失ってしまったような場合です。
そういうことは、自分の成長を「他人と比較すること」「競争で打ち勝つこと」などの明示的な結果にもとめたときに、よく起こります。

マインドフルの練習(144)
ストップウォッチがあればそれを使いますが、スマホやケータイのストップウォッチ機能を使ってもいいでしょう。
「よーい、スタート」と自分でスタートボタンを押してから、時計の画面を見ずに心のなかで「十秒」数えます。
自分でここが十秒だと思ったら、ストップボタンを押します。
実際に何秒だったのかを確認してみます。
実際より長かったでしょうか、短かったでしょうか、あるいは十秒ぴったりだったでしょうか。
何度かやるうちに、だんだん近似値が出せるようになったり、あるいは自分のなかでの時間の経過がゆっくりになったり遅くなったりと伸びちぢみしていることがわかるかもしれません。

2014年5月20日火曜日

マインドフルな5月20日

自由である、と感じるのはどういうときでしょうか。
ただ自分の好き勝手にふるまうのが自由とは思えません。
なぜなら、私たち人間は社会的動物であり、常に他者との関係のなかで生きているため、自分が好き勝手にふるまったとしたら他者に不都合をあたえてしまうことをよく知っているからです。
自分の自由を優先して他者を犠牲にすることを、私たちはいさぎよしとしません。
そうではなく、他者との関係性をそこなうことなく、自分の手のなかにいくつかの選択肢があるとき、またその選択肢の幅によって他者のふるまいや環境の変化を受け入れることができるとき、私たちは自分が自由であると感じ、またそのことを楽しむことができます。

マインドフルの練習(143)
裸足になれる場所を選んで、裸足になってみましょう。
靴や靴下を脱いで素足になり、床や地面をじかに感じてみます。
これから夏のシーズンになれば浜辺に出かけることもあるかもしれません。
そんなとき、裸足の足の裏が砂地を踏み、砂の一粒一粒が足裏の皮膚に触れる感触を味わってみます。
浜辺でなくても、自分の部屋でもかまいません。
足裏でフローリングや畳やカーペットの感触をただ専心に味わってみましょう。

2014年5月19日月曜日

マインドフルな5月19日

「頑張る」という言葉があります。
勉強でもスポーツでも仕事でも、よりよくできるように努力をしますが、そのときのモチベーションはどこからやってくるでしょうか。
やってみたのにうまくいかなかった、悔しかった、人にけなされた、上司や先生や指導者にしかられた、だから頑張る。
やってみたらうまくいった、満足した、ほめられた、さらにできるように頑張る。
いずれも自分のニーズを満たすために頑張るのです。
人が自分のニーズを満たすために頑張ることを「美しい」と見ます。

マインドフルの練習(142)
椅子に腰をかけ、脚を組んでみます。
右脚を左脚の上に。
つぎにそれを組み替えて、左脚を右脚の上に。
それぞれどんな感じですか?
違った感じがしますか?

2014年5月18日日曜日

マインドフルな5月18日

だれかの表現行為を観て「素敵だった」「楽しかった」と思っているのに、ご本人が「全然だめだった」と自分を卑下していることがよくあります。
謙遜ゆえか、あるいは本当に「だめ」と自分自身に評価をくだしているのかもしれませんが、その場合、こちらの「素敵/楽しい」という気持ちまで否定されるような気がして、悲しくなることがあります。
つまり、なにか表現して、それが終わって過去のものになったとき、そのことを振り返って評価をくだすのは、たとえ自分自身であったとしてもなにもよいことは起こらないのです。
しかし、向上心を持たなくていい、といっているのではありませんよ。

マインドフルの練習(141)
床に膝をついて四つん這いになった状態で、頭をさげて自分のおへそを見るようにしたあと、今度は頭を持ちあげて上を見上げるようにします(首をいためないように気をつけてください)。
頭にあつまっていた血液が、今度は身体のほうにある程度もどっていくのを感じますか?
血液が自分の身体のなかをたえず流れ、動いていることを、じっくりと感受してみてください。

2014年5月17日土曜日

マインドフルな5月17日

人が他人を攻撃するのは、もともと攻撃性を持っているからではありません。
自分を守るため、あるいは生きのびるために必要なときだけ、他人や他の動物を攻撃するのです。
つまり、人の攻撃性は「身を守るため」に発動されます。
過剰に想像力がふくらみすぎて、自分におよぼされる危険を過大評価している人間は、必要以上に攻撃的になり、他者を攻撃しつづけることがあります。
自分が安全であること、安心であることを過剰にもとめるあまり、自分の身を守ろうとものごとに先回りして過剰に攻撃的になっているのです。

マインドフルの練習(140)
床に膝をつき、四つん這いになります。
頭を持ちあげ、顔を前に向けます。
それからゆっくりと頭をさげ、自分のおへそを見るようにします。
そのとき、血液がながれるようすが変化するのを感じられますか?
頭部に血流が集まり、目や鼻や口まわりの感じが変化するかどうか、観察してみてください。

2014年5月16日金曜日

マインドフルな5月16日

車のハンドルを握ると性格が豹変する人がいます。
ふだんはおとなしいのに、「バカやろう、ひき殺すぞ!」などと毒づいたりして、びっくりしてしまいます。
車の運転がその人の性格を変えたのだろうか、あるいはもともとそういう性格であることを隠していたのが運転によって露呈してしまったのだろうか、どちらなのだろうかとかんがえます。
おなじように、ふだんは礼節を持って人に接する人が、ネット上では相手を罵倒したり心のない非難をぶつけたりすることがあります。
さて、どちらがその人の本質なんでしょう。

マインドフルの練習(139)
両手を「合掌」の形に合わせます。
右手だけひらいてから、左手に打ちつけます。
つまり、右手だけ動かして拍手をします。
つづいて、左手だけひらいてから、右手に打ちつけます。
それぞれの感じをよく味わいます。
それぞれ、感じはちがっていますか? それとも変わりないですか?

2014年5月15日木曜日

マインドフルな5月15日

人はだれかとつながりを持てたり、尊重されたり、楽しみを共有することで、心豊かにすごすことができます。
しかし、友だちが少なかったり、家族と打ち解けられなかったり、唯一の友だちが遠く離れていたり、あるいは仲間から尊重されないと感じたりしたときはどうすればいいでしょうか。
そういうときのためにこそ、自己共感とマインドフルネスのスキルを養っておきましょう。
「いまここ」の自分自身の存在と価値、命そのものにつながって、孤独であっても生(せい)を味わいながらすごせること。

マインドフルの練習(138)
判子(はんこ)を持っていますね。
できればゴム印ではなく、銀行印や実印などの硬い素材のものがいいでしょう。
朱肉をつけて、適当な紙に判を押してみましょう。
判面が紙に均等に押しつけられ、まんべんなくどこも欠けることなくきれいに判が押せるかどうか、慎重にやってみます。
その過程をマインドフルに楽しむことを試みてみます。

2014年5月14日水曜日

マインドフルな5月14日

マーシャル・ローゼンバーグが創始者であるNVC(Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)をベースにした共感的コミュニケーションは、いま世界的に注目されているEI(Emotional Intelligence)とマインドフルネスを組み合わせたプログラム「SIY(Search Inside Yourself)」にとてもよく似ています。
SIYは高額の講座で何カ月待ちといった人気を誇っていますが、共感的コミュニケーションはいますぐ、だれでもすぐに始めることができます。
私や音読療法士がおこなっている共感カフェに参加してみてください。

マインドフルの練習(137)
朗読を聴いてみましょう。
オーディオブックや、YouTubeなどで公開されている朗読の映像や音声を聴いてみるといいでしょう。
朗読を聴くとき、私たちはつい、それが「どんなお話なのか」「どういう内容なのか」というテキスト情報に注目し、それを追ってしまいがちですが、今回はそうではなく、朗読者がそれを「どのように読んでいるか」に着目し、観察してみます。
息継ぎ、声の調子、音程、リズム……意味を追わず、朗読者の身体から発せられる音声やその存在そのものを受け取り、感受してみましょう。

2014年5月12日月曜日

マインドフルな5月13日

人間の思考は自分にないもの、自分がほしいと思いこんでいるものを勝手に想像し、作りあげてしまいます。
自分にふさわしいパートナーがどこかにいるはず、自分の能力を引きだしてくれる上司がどこかにいるはず、自分の能力を存分に発揮できる仕事がどこかにあるはず、いつか自分も成功するチャンスが来るはず……
そのような妄想を追いかけているうちは、それはけっして実現しません。
いまこの瞬間に自分がやれることに集中し、マインドフルに能力を発揮すること、そのことでしか人は前に進めません。

マインドフルの練習(136)
音楽を聴いて(観て)みましょう。
YouTubeでもなんでもいいので、オーケストラが演奏している映像を探してみます。
どんな曲を演奏しているのか、ではなく、どのように演奏しているのかを観察してみます。
バイオリニストのひとりひとりの身体の動き、ホルン奏者の息つぎ、打楽器奏者のしぐさ、指揮者の表情。

音楽を聴くとき、私たちは「音楽を聴いて」しまうのですが、それが「どのように演奏されているのか」を観察してみると思いがけないことに気づくことがあります。

マインドフルな5月12日

どんな人も幸せになりたいと思いますが、どこかに「幸せ」というものがある、あるいはいつか幸せがやってくる、とかんがえていると、しあわせはやってきません。
幸せはどこかではなく「ここ」に、いつかではなく「いま」に存在しているものです。
マインドフルネスを実践し、自分の「いまここ」につながっていくとき、まさにいまここに自分の命の輝きがあることに気づきます。
そうやって活力に満ちて瞬間瞬間を生きていくことが幸せであり、人々や社会に貢献できることの幸せも生まれます。

マインドフルの練習(135)
絵を鑑賞してみましょう。
できれば実物がいいのですが、なければ画集でもいいです。
そのとき、そこになにが描かれているのかではなく、どのように描かれているのか、つぶさに調べてみます。
たとえば絵筆のあとが残っていないか、絵の具がはねたりしていないか、色と色が混じり合っている部分はどのような変化があるか、といったふうに。
つぶさに画面全体を観察してみてください。

2014年5月11日日曜日

マインドフルな5月11日

子どもを見ているとわかりますが、夢中になって遊んでいるとき、学びと成長がそこにあります。
大人から強制されたり、報酬を設定されてなにかをやるときは、そこには「夢中」はなく、効率や目的達成のための「計算」が働いています。
そこに本当の学びはあるでしょうか。
大人もおなじで、なにかを夢中にやっているときにしか学びと成長はないのです。
自分がどんなとき、どんなことをしているときに夢中になれるのか、なにが本当に好きなことなのか、大人になっていたとしても、年齢を重ねていたとしても、きちんと検証してみるとおもしろいでしょう。

マインドフルの練習(134)
両手を合掌の形にいったん合わせてから、一度だけ掌を打ち合わせて拍手をしてみます。
その音をよく聴いてください。
どんな音がしましたか?
しっかり味わったら、もう一度拍手をします。
今度はどんな音がしましたか?
拍手は二度とおなじ音がしないでしょう。
何度やっても、ちがった味わいの音がすることを楽しんでみてください。

2014年5月10日土曜日

マインドフルな5月10日

「学び」が楽しくなくなるのは、報酬や目的が設定されたときです。
本来、人は学ぶことに喜びをおぼえ、学ぶことを楽しむものです。
では、なぜ学びは楽しいのでしょう。
人は社会的な動物なので、学び成長しなければ社会からはじきだされます。
つまり、生きられないわけです。
人間が学びつづけるのは、人社会で生き残るための獲得された戦略であり、本能といえるかもしれません。
学びつづけるために「それ自体が楽しい」という脳内の報酬系が働くように、本能にセッティングされているのです。

マインドフルの練習(133)
立った姿勢で普通に自然な呼吸をします。
その呼吸を観察しながら、膝と股関節をゆっくりと曲げていきます。
つまり、やや前傾姿勢になりながら、身体は低く沈みこんでいきます。
姿勢が変化していくにつれ、呼吸のようすがどのように変わるのか、観察してみてください。
沈みこみが深くなって腹部や胸部が圧迫されたとき、呼吸の感じはどのようになるでしょう。
そこから今度は膝と股関節がのび、身体が元のまっすぐの位置にもどっていくとき、呼吸の感じはどのように変化しますか?

2014年5月9日金曜日

マインドフルな5月9日

なにかの目的を達成するために学ぶのではなく、学ぶこと自体が楽しいから学ぶ、というのが、どうやら人間の本質のようです。
それなのに、学びに「報酬」を設定し、効率よく学ばせようというのは、大人がアタマでかんがえだした浅はかな戦略にすぎません。
報酬が設定されると人はその報酬を目当てに動きますし、またできるだけ効率よく、手抜きして報酬を得ようとします。
そこには「学び」自体にある喜びはありません。

マインドフルの練習(132)
両足を肩幅にひらき、リラックスして呼吸に注目します。
数回呼吸してから、今度は足をぴっちりと閉じて呼吸してみます。
また数回呼吸したら、今度は両足を大きく開いて呼吸してみます。
足の開きかた、姿勢が変化すると、呼吸や身体のようすが変わることを、しっかりと観察してみてください。

2014年5月8日木曜日

マインドフルな5月8日

なぜ成長したり勉強することが「よし」とされるのでしょうか。
数量的・経済的・効率的に「結果」をもとめがちな現代社会においては、学び、成長することで、自分のできなかったことができるようになる、なにか目的が達成できる、というようにかんがえがちです。
しかしそれでは、目的を達成したらもう学んだり成長する必要はありません。
目的を達成するためではないとしたら、なぜ学び、成長することをのぞむのでしょう。
それは学び、成長することが楽しいからにほかなりません。
学びや成長が楽しいものでなくなってしまうのは、そこに目的や効率を持ちこむからです。

マインドフルの練習(131)
自宅から駅まで、とか、仕事場からコンビニ、とか、どこでもいいですが、いつも歩いている道をあらためて歩いてみます。
そのとき、「におい」に注目してみます。
いつも歩いている道を、どこでどんなにおいがするのか、土やコンクリート、植木や花壇、排気、店屋、どのくらいのにおいに気づくことができるでしょうか。

2014年5月7日水曜日

マインドフルな5月7日

だれかと話したり、なにかを見たり聞いたりするとき、私たちは「必要な情報」のみを取捨選択しています。
とくに現代人はその能力を先鋭化しています。
しかし、往々にして必要な情報とは、言語的・意味的・効率的なものばかりで、本当はより重要な情報を取りにがしていることがしばしばです。
非言語情報のなかに重要な情報があるのに、言葉の意味にばかり気を取られて、相手が本当にいいたいこと/伝えたいことを聞きのがしてしまうことが多いのです。
そんなわけなので、非言語情報を受け取る練習を、ことさら意識的におこなう必要性が出てきます。

マインドフルの練習(130)
コップにさしたストローに息を吹きこんでブクブクさせますが、そのとき声も出してみてください。
「うー」でかまいません。
水のブクブクいう音、ストローと水をくぐってひずんだ声、そして喉から自分の骨格を通して直接耳にとどく自分の声、それらが合わさってどんな感じの音になっていますか?
かなりニュアンスの細かい、複雑な音になっているかもしれません。
それに緻密に耳をかたむけてみてください。

2014年5月6日火曜日

マインドフルな5月6日

私たち人間は「非言語シグナル」を受け取る能力に本来たけています。
なにかにたいして怒っている人がいると、その人のそばにいるときその怒りをなんとなく感じます。
リラックスしている人のそばではリラックスを、悲しんでいる人のそばでは悲しみを、ことばをかわすひとなくなんとなくその人の状態を受け取ります。
これは私たちがまだことばを使えない赤ん坊のころから生まれつき持っていたり、獲得したりした能力です。
しかし、大人になるにつれ、非言語シグナルを無視し、言語的に明示された情報を注目するようになります。

マインドフルの練習(129)
コップに水をいれ、そこにストローをさします。
ストローを口にくわえ、ゆっくりと息を吹きこんでください。
ストローの先からブクブクと気泡が出てくると思います。
それを見たり聴いたりしながら、なるべくゆっくりと長く息を吹いてみてください。
これは息を長く吐くためのとてもよい練習です。

2014年5月5日月曜日

マインドフルな5月5日

誕生日が来たり、年が変わったり、月が変わったり、などの月日の区切りがやってくると、つい「また歳を取ってしまった」と思ってしまうことがあります。
たしかにそのとおりなんですが、その思考は自分になにもよいことをもたらしてくれません。
歳を取ることはたしかですが、それはまたまったくあたらしい自分に出会うという体験でもあります。
まだ見ぬ自分、まだ経験したことのない自分に、日々私たちは出会いつづけているのだ、というふうにかんがえることもできます。

マインドフルの練習(128)
冷たい水を口にふくんでみます。
冷たさは口のなかいっぱい、そして舌にも感じられます。
舌を動かすと舌の上もほうにも下のほうにも冷たさを感じられるでしょう。
最初は冷たさを感じていた水も、時間がたつにつれ体温であたためられ、口のなかでなじみ、やがて冷たくなくなっていきます。
その変化のようすを観察してみます。

2014年5月4日日曜日

マインドフルな5月4日

錯視という現象があります。
本当はおなじ長さの線なのに長短に見えてしまったり、動かない絵なのに動いているように見えたり。
そういったことは人の認知能力の特徴と限界をしめしてくれますが、自分の認知能力に癖や限界があるということを知っておくことは重要です。
自分の認知能力を超えた現象があったり、認知できていると思いこんでいることが実は錯覚や思いこみであったり、というのはしばしばある、という自覚をしておく必要があります。

マインドフルの練習(127)
親指と人差し指との先端を合わせて「○」を作ります。
左右の手でそれぞれ作ります。
それを鎖のようにおたがいに組み合わせます。
ふたつの輪が組み合わさったものを、両手で左右に引っ張ります。
どちらかの手指の力が強いか、弱いか、差があるか、あるいはないか。
たいていはどちらかの力が強くて、弱いほうの輪を破ってしまいます。
そのようすをまるで他人事のように客観的に観察してみてください。

2014年5月3日土曜日

マインドフルな5月3日

天井板の模様とか、岩肌の模様とか、ふとした瞬間に人の顔や動物や、その他なにか知っているものに見えたりすることがありますね。
偶然の産物ですが、いったんたんなる模様がなにかに見えてしまうと、それ以降はどう見てもそれにしか見えなくなってしまう、という経験を多くの人がしているんじゃないでしょうか。
人間の認知能力というのは、人の顔なり動物の姿なり、あるパターンを認識することに非常に長《た》けていますが、逆にそれゆえに「思いこみ」を生んでしまうこともあります。
自分が見ているものが思いこみなのか、そうでないのか、これをチェックするのはかなりの慎重さを必要とします。

マインドフルの練習(126)
両手のてのひらをぴったり合わせて、合掌の形にします。
肘を張り、下腕がてのひらの付け根を中心にまっすぐになるようにします。
てのひらを力をこめて押しあいます。
自分の力ですから、どちらかが押され負けしてしまうということはないでしょう。
自分で自分のてのひらを左右からたがいに押しあったとき、どんな感じがするか観察してみましょう。
そのとき、呼吸をとめないように気をつけてください。

2014年5月2日金曜日

マインドフルな5月2日

自分が見ているもの、聴いているもの、感じているもの、そのすべては神経を伝達する信号として脳にとどけられます。
脳ではそれらを処理して、自分独自のイメージや感覚として再構築しているのです。
いわばバーチャルな像です。
そのものの実体と脳でとらえた感覚とにずれがあるのはあたりまえのことです。
そのずれを知り、修正するためには、実際に動いたり触ってみるしかありません。
しかし、現代社会はそれに輪をかけてバーチャルな情報や体験が増えていて、我々はものごとの実体からますます遠ざかっているといえるでしょう。

マインドフルの練習(125)
だれか知り合いに頼んで「握手」をさせてもらいましょう。
その前に、その人と握手した感覚を自分で想像してみます。
なるべくリアルに、感触、温度、湿度などをあらかじめイメージしておきます。
それから実際に握手してみます。
あらかじめイメージしたものとリアルな感触とはどのように違いますか? それとも似ていますか?

2014年5月1日木曜日

マインドフルな5月1日

人は自分の身体のことを自分でわかっていると思っていますが、はたしてそうでしょうか。
身体の状態は感覚神経をとおして信号として脳に送られ、「こんな状態」というバーチャルなイメージとして脳内に再構築されます。
そのイメージが実際の身体の状態と一致しているかどうかは、なかなか確かめるすべがありません。
私たちは往々にして、自分がイメージしている身体の状態と、実際の身体状況のずれを生んでいます。
そのずれを知るには、実際に動いてみるしかありません。

マインドフルの練習(124)
目の前に鉛筆(ペンでもいいですが)を一本と紙を一枚置きます。
まず鉛筆を「つかもう」と思ってからおもむろにつかんでみてください。
そのときの身体の動きを緻密に観察しておきます。
つぎに、紙になにかを「描こう」と思って鉛筆をつかみます。
先ほどと比べてなにか身体の動きのようすに変化はありましたか?
非常に微細な変化ではありますが、このふたつの動作には決定的に質の差異があるのです。