2014年8月31日日曜日

マインドフルな8月31日

人のうわさ話――とくに悪口に熱中する人がいます。
たしかに、その場にいない人のことをあれこれいうのは楽しいのです。
しかし、その楽しみはけっしてはればれとしたものではありません。
いったいなぜ人は他人をおとしめることで快感をおぼえるのでしょうか。
それはひとえに、自分の優位性を確認したいからにほかなりません。
あの人より私のほうがすぐれている、私はあんなに性格が悪くない、私の境遇はあれほどひどくない、というふうに優位性を感じることで安心するのです。
しかしその優位性や安心は外部に依存している(他人をおとしめることで相対的に手にいれる)ものなので、不安はいつまでも解消しません。
だからさらにその行為はつづき、あなたの顔はみにくくなってしまいます。

マインドフルの練習(248)
目の前に片手をかざします。
右、左、どちらの手でもかまいません、表、裏、どちらでもかまいません。
かざした手をまずはじっくりと観察します。
それから目を閉じ、呼吸に注意を向けながら、ゆっくりと一から十まで数えます。
目をあけます。
さて、かざした手はどのように見えますか? さっきと同じですか? それともちがった感じがしますか?

2014年8月30日土曜日

マインドフルな8月30日

自分を攻撃してくる相手に立ち向かうとき、それは共感の力をもっておこないます。
相手がなにを大切にしているからそのような行動に出ているのか、それを推測し、相手に共感を向けていきます。
うまくいけば相手はあなたに大切にしていることを教えてくれます。
そうしたら、あなたはそれを尊重します。
相手は自分の大切にしていることをあなたが尊重してくれるとわかれば、もう攻撃する必要は感じなくなるでしょう。
相手の攻撃がやんだら、あなたも自分の大切にしていることを相手に伝えればいいのです。
暴力の応酬のかわりに共感関係というつながりが生まれます。

マインドフルの練習(247)
蝉の鳴き声のかわりに秋の虫の声が聞こえる季節になりました。
夜、外に出て、緑のあるところに行ってみると、あちこちから虫の声が聞こえてきます。
それに耳をすましてみます。
いくつの声が聞こえるでしょうか、それはどこから聞こえるでしょう。
しばらく立って、さまざまな虫の声を味わってみます。

2014年8月29日金曜日

マインドフルな8月29日

どなたも自分の身を守ること、自分の安全が大切です。
だれかから攻撃されたとき、自分の安全を守るためにどうするでしょうか。
安全を守るために反撃したり、先手を打って攻撃したりします。
世界のほとんどの国家がこのような行動をとっています。
しかしそれは本当に良策でしょうか。
逃げる、という手もあります。
緊急の場合はそれも必要でしょうし、国家の場合はそもそも動くことができません。
もっとも有効な手は、相手を思いやる、共感する、そしてつながりの質を確保する、ということなのです。
共感は最大の防御なのです。

マインドフルの練習(246)
なにか荷物が届いたとき、箱を閉じているガムテープなどをカッターナイフで切ることがあります。
手っ取り早く荷物を取りだしたくて、マインドレスに、雑に作業をおこなっていませんか?
一度マインドフルネスをこころがけて、丁寧にナイフを入れてみましょう。
段ボールと段ボールの閉じ目のところにナイフの刃をあて、ゆっくりとナイフをすべらせてテープをカットしてみましょう。
あまり力を入れなくても、閉じ目にそってナイフの刃先は勝手にすべっていくはずです。
あわてて作業するときと、丁寧にゆっくり作業するとき、どちらが効率がいいのか、確認してみます。

2014年8月28日木曜日

マインドフルな8月28日

だれしも、人から失望されたり、期待に添えなかったりすると、悲しい気持ちになります。
「きみ、つまんないね」などといわれたりすると、落ちこみます。
実際、私も何度か経験のあることです。
私はピアニストなので、私の演奏がお気にめさなかった方からよく、そのようにいわれることがあります。
とくに目上の方などは気楽にそういうことを伝えてくれたりします。
そういうとき、たしかにこちらにダメージはあるんですが、そのダメージを長引かせなかったり残さないためにも、相手に共感しておきます。
相手はなにを大事にしているのだろうか、私の演奏をつまらないとジャッジしたその価値観はなんだろうか。
不思議なことに、これをやっておくだけでこちらのダメージは嘘のように軽くなって、またつぎに向かって元気を出すことができるのです。

マインドフルの練習(245)
自分の呼吸に注目して、それが落ち着いたら、身体全体に意識を向けます。
そのあと、息をすこし吸って、止めます。
唇を閉じて、口のなかに息を吹きこみます。
ほっぺたがふくらみ、フグのようにぷっくりなると思います。
そのとき、ほっぺたが内側から伸ばされる感触を味わってみます。
たくさん息を吹きこめば、ほっぺたはうんと伸びてぱんぱんになるでしょう。

2014年8月27日水曜日

マインドフルな8月27日

自分が自分だと思っているのは、脳内で作られたイメージです。
自分の身体だと思っているのは、感覚器官から脳に送られた情報をもとに脳がまとめあげた「身体感覚」というイメージです。
自分の身体や自分自身を、私たちは直接知ることはできません。
すべて「客体」としての身体や感覚を脳がまとめあげているイメージです。
しかし、たしかに「私」が動けば、そこには動きが生じ、動いたという事実が残ります。
この事実と、脳が作っているイメージとは、別のものです。
さて、私たちはどちらを信用すればいいのでしょうか。

マインドフルの練習(244)
熱いお湯を入れた湯のみを用意します。
熱いコーヒーをいれたコーヒーカップでも、熱いスープのはいったスープカップでも、なんでもかまいません。
その入れ物の表面が熱いことをあなたは知っています。
やけどをしないように注意しながら、指先で表面を触ってみましょう。
すぐに熱いと感じましたか? それとも熱いと感じる時間にタイムラグがありましたか?

2014年8月26日火曜日

マインドフルな8月26日

私たち人間は自我があり、自分のことを自分だと認識できていると思っています。
本当にそうなのでしょうか。
私たちは自分自身を、あたかも自分の外側から見るように「いま自分は怒りにとらわれているんだな」と客体として客観視することもできます。
それならば、自分のことを自分自身だと認識しているその認識そのものも、客体としての自分の認識ではないでしょうか。
つまり、私たちは自分自身を「主体」としてそのまま観ることはできないのです。
いつも私たちは客体としての自分なのです。
自分自身がもっとも不可解な存在である理由はそこにありますし、ましてや他人を理解できるなどというのは乱暴すぎるかんがえなのです。

マインドフルの練習(243)
自分の髪の毛を数本、指先でつまんで、引っ張ってみます。
強く引っ張ると抜けてしまいますが、そこまで強く引っ張る必要はありません。
が、ある程度力をいれると、頭皮が引っ張られてすこし痛みを感じるでしょう。
そのとき、自分の意識がその部分に集中していくようすを観察してみてください。
髪の毛が引っ張られ、その部分の頭皮が痛みを感じるとき、全身の注意がそこに向かっていくようすがあると思います。
指を離すと、全身の感覚はもとにもどって、ふたたび全体にゆきわたります。

2014年8月25日月曜日

マインドフルな8月25日

私たちは自分のことを「主体」としてとらえています。
私はここにこうしている、こう感じている、こんなことをかんがえている、というその主体として、自分をとらえています。
一方、自分自身を「客体」としてとらえることもできます。
「あ、いま自分は怒りにとらわれてまわりが見えなくなっている状態なのだな」と客観的に自分を認識することもできます。
つまり、自分を客体として外側から俯瞰して見ることもできます。
自分自身を客観視できたとき、私たちには「シフト」が起こり、落ちつきを取りもどすことができるのです。

マインドフルの練習(242)
紙を一枚、取って、指先につまんで目の前にぶらさげます。
どんな紙でもいいです、広告でも、コピー用紙でも、メモ用紙でもかまいませんが、ティッシュペーパーのように腰のないものでなく、ある程度腰がある紙のほうがいいかもしれません。
それを目の前でぴらぴらと振ってみます。
音がするでしょうか。
どんな音がしますか?
その音を身体のなかに取りいれるようにしっかりと聴きとってみましょう。

2014年8月24日日曜日

マインドフルな8月24日

例として「怒り」の感情を取りあげてみます。
怒りまくっている「私」は、怒りの感情に支配され、怒りまくること以外の行動を選択できなくなっています。
そんなとき、自分の呼吸に注目し、マインドフルネスを心がけて「いまここ」の自分につながることで、自分の感情を客観視してみます。
その怒りがどこから来たのか、自分のどんな価値に触れたのか、なにを必要としていたから怒りが生まれたのか。
そのとき、もうすでに私には「シフト」が起こっています。
「怒りの感情に支配されている私」から、「怒りのもとになった自分の価値を見つけようとしている私」に変化しているものです。
行動の選択肢と自由度が生まれています。

マインドフルの練習(241)
てのひらを上にむけて片手を胸の高さくらいに上げます。
そのてのひらに上にティッシュペーパーを一枚、反対の手でそっとかぶせます。
てのひらと紙のあいだに空気の層ができて、ひょっとしたらてのひらの熱で暖められる感じがあるかもしれません。
しばらくたったらティッシュをそっと取りのぞきます。
そのとき、どんな感じがしますか? そこに新鮮な空気がやってくる感じはありますか?

2014年8月23日土曜日

マインドフルな8月23日

怒り、悲しみ、喜び、嫌悪、虚脱感、幸福感など、私たちは刻一刻とさまざまな感情に包まれて生きています。
それは自然なことですが、強い感情は私たちの自由を奪うことがあります。
感情に支配されて、行動が束縛されてしまうのです。
憎悪による相手への攻撃行動などもそのひとつです。
その感情のもとになっている価値、大切にしていること、必要としていることがなんなのか、そこにつながる必要があります。
もし感情のもとになっているものにつながることができれば、シフトが起こって感情の束縛からのがれ、あなたの行動は自由度を取りもどします。

マインドフルの練習(240)
半袖の服を着ているときか、腕まくりをしているときがいいでしょう。
片手を胸の前に持ちあげ、幽霊みたいに手首から先の力を抜いてだらんとさせます。
それを左右にぶらぶらと振ってみます。
そのとき、腕全体がどのように動くか、観察してみましょう。
手首から先だけでなく、肘から先や上腕、さらにいえば身体全体も連動しているのがわかりますか?

2014年8月22日金曜日

マインドフルな8月22日

人が横着していると腹が立つことがあります。
食事のあと食器を片付けずにほったらかしにしていたり、お年寄りが立っているのに優先席に座ったまま気づかずにいたり、ゴミ箱めがけてゴミを投げつけて入れるのに失敗したり。
ささいなことですが、腹が立ったりします。
まず、自分がなぜ腹が立つのかを見てみましょう。
秩序が必要なんでしょうか、思いやりが必要なんでしょうか、配慮が大切なんでしょうか。
そしてまた、横着している人についても想像してみます。
あなたにもきっとその人のように横着なことをしたことがあるはずです。

マインドフルの練習(239)
腕時計をはずしてみます。
それからまたはめてみます。
そのとき、どんな感じがするか、よく注目しておいてください。
つぎにふたたび腕時計をはずし、今度はいつも腕時計をはめているのとは反対の腕にはめてみます。
ちょっとぎこちないかもしれません。
どんな感じがしますか?
はめてみたあともどんな感じがするのか、よく注目してみます。

2014年8月21日木曜日

マインドフルな8月21日

デフォルト・ネットワークという言葉をご存知でしょうか。
最新のニューロサイエンス(脳科学)などでしだいに明らかになっている研究ですが、脳には外部から刺激や課題を与えられて活発に働く神経ネットワークや、逆に安静にしていたり瞑想しているときに働く神経ネットワーク=デフォルト・ネットワークがあります。
お風呂につかってぼーっとしていたり、瞑想したりするときに、脳内ではデフォルト・モード・ネットワーク(DMN)が活性化しています。
このときにひらめきが生まれたり、取りこんだ知識や記憶の整理がおこなわれたりして、重要なモードだという見解が示されています。
つまり、ぼーっとすることはけっこう重要なことなのです。

マインドフルの練習(238)
呼吸するときのお腹の動きに注目してみます。
お風呂あがりなど、服を着ていないときがいいかもしれませんね。
息を大きく吐ききっていくとお腹はへこみますね。
今度は吸いきっていくと、お腹はでっぱりますね。
呼吸に合わせて自分のお腹がどのように動いているのか、じっくりと観察してみましょう。

2014年8月20日水曜日

マインドフルな8月20日

食事やお土産をプレゼントして、だれかに「おいしかった」といってもらったとき、「お口に合いましてよかったです」などといいます。
これは、自分が相手に提供したものが、自分では気にいっているけれど、相手が気にいってくれるかどうかはわからない、というとても謙虚な姿勢で、美しいものだと感じます。
自分が良いと思って行なったことでも、人には喜ばれないこともあれば、喜んでもらえることもあります。
それは本当に行なってみなければわからないことなのです。

マインドフルの練習(237)
洗面器に水を張ります。
できればなるべく冷たい水がいいですね。
水面が静まるあいだ、呼吸に注目して待ちましょう、
水面が静まったら、水面と平行にてのひらを広げ、近づけていきます。
水面にてのひら全体をつけます。
それからゆっくりと手を沈め、手首まで沈めていきます。
その手や指全体が水に沈み、冷たく包まれていく感覚を、緻密に味わってみましょう。

2014年8月19日火曜日

マインドフルな8月19日

評価されることを怖れたり嫌悪していても、現代社会に生きている以上、それから逃れることはだれもできません。
仕事の報酬は、能力や能率、成果が評価された結果、決まります。
しかし、「生きていくことの目的」を評価を得ることに定めてしまうと、つらいことになります。
生きていく以上、評価は必要であり、それがなければ現代生活をいとなむことはできませんが、それ自体は生きていくための手段であり、目的ではないはずです。
では、目的とはなんでしょう。
あらためて個々人が自分自身に問いなおしてみるしかありません。

マインドフルの練習(236)
リュックサックを背中にかついでみます。
いつもなにげなくおこなっている行為ですが、あらためて自分がどのようにしてリュックサックをかついでいるのか、観察してみましょう。
スローモーションでやってみるとわかりやすいかもしれません。
どうやって持ちあげ、腕に通しているのか。
腕は右が先なのか、左が先なのか。
腕を通したあと、どのようなして背中に安定させているのか。
よく注目しながらやってみましょう。

2014年8月18日月曜日

マインドフルな8月18日

時々、自分が人から評価されることに対して本当に怖れを抱いていたり、嫌悪感を持っていることに気づくことがあります。
現代社会はまさに評価社会なので、だれかがなにかをするとかならずそれに対する評価をくだそうとする人々に取り囲まれます。
たとえ個人的な家事のようなことでも、たとえば洗い物をするというようなことでも、
「そのやりかたではだめだ」
「泡が残ってる」
「水を無駄づかいしてる」
といった言葉が降りかかってきます。
自分が非難されているように感じてつらくなりますが、相手はじつは自分の価値観を述べているにすぎないのです。

マインドフルの練習(235)
この時期になると、よくセミの死骸に出くわすことがあります。
まるで生きているそのままのような形だったり、仰向けになってころがっていたり、あるいは踏みつぶされて無惨な姿になっていたり、いろいろです。
ちょっと気味が悪かったり、こわかったりするかもしれませんが、勇気を出して近づいて観察してみましょう。
あらためて、セミはどんな姿をしているでしょうか。
そして、それを見るあなたのなかにどんな感情のゆらぎが起こっているでしょうか、あるいはどんな身体つきになっているでしょうか。

2014年8月17日日曜日

マインドフルな8月17日

自分が本当に必要でなにかをおこなったり、心からやりたくて表現していることは、たとえそれが批判にさらされたとしても、そんなに落ちこむことはありません。
しかし、義務的におこなったり、命じられてやったことを批判されたり、避難されたりすると、とてもダメージが大きくなります。
なにかをやるとき、義務的にやっていないか、いやいやおこなっていないか、自分をチェックしてみます。
もしそうだったとしたら、それをおこなうことで自分のどういう必要性が満たされるのかをよく見定めてみます。

マインドフルの練習(234)
電車に乗ってつり革につかまります。
ぎゅっと握って腕に力をこめてみます。
すると身体が浮きあがるようになって、体重が軽く感じます。
力をゆるめると、体重がもどってきて、重くなります。
何度かくりかえしてみてください。
自分がいかに自分の重さを支えているのか、観察してみます。

2014年8月16日土曜日

マインドフルな8月16日

自分の適正体重を把握していますか?
たとえば六〇キロが適正体重だと思っている人が六五キロになれば、太りすぎだと判断してせっせとダイエットにはげむ。
しかし、大事なのは、六五キロになった自分の身体が、どのようにいっているのか、ではないでしょうか。
調子がいいのか、悪いのか、重いといっているのか、あるいはスタミナがついてバリバリやれるといっているのか。
体重が五キロ増えても、こちらのほうが調子がいいと身体がいっているのなら、それが適正なのです。
適正かどうかは、数字ではなく身体の声が教えてくれます。

マインドフルの練習(233)
ゆったりと立ち、自分の呼吸に注目します。
右手でも左手でもいいですが、片手をゆっくりと頭上まであげてみます。
すると、血液が指先から肩のほうへとさがっていく感じがありますね。
長くあげっぱなしにしていると、手の先のほうの血液がすくなくなって、腕全体がだるくなっていきます。
その過程と感覚をじっくりと観察してみましょう。

2014年8月15日金曜日

マインドフルな8月15日

現代人の数字依存は病気の域にたっしているくらいに思えます。
じつは私もそうしていますが、毎日体重計に乗り、その増減に一喜一憂したり、その数字によって食事を調整したりします。
本当はきちんと自分の身体の声を聞き、必要なものを必要な分量、自分の判断で食べればいいのですが。
数字は自分の健康状態の基準を知るのに便利ですが、数字そのものが体調を示してくれるわけではありません。
自分の体調を教え、必要なものを知らせてくれるのは、いうまでもなく自分の身体です。
そこの声に耳をすます習慣を持てるといいですね。

マインドフルの練習(232)
ゆったりと立ち、まず自分の呼吸に注目します。
呼吸から意識を離さないまま、ゆっくりと上体を曲げて前屈してみます。
苦しいほど曲げる必要はありません。
ストレッチの練習でもありません。
上体を曲げることで、血液が頭のほうにさがってくると思います。
その感じを呼吸をとめずに観察してみましょう。

2014年8月14日木曜日

マインドフルな8月14日

私たち現代人はなにごとも目に見えるもの、言語化できること、数値化できることに頼り、安心する傾向があります。
とくに数値化については数字依存症なのではないかと思うくらい、無意識に頼っています。
たとえば食品のカロリー。
カロリー表示を見て、いちいち安心したり、忌避したりします。
カロリー表示も参考にはなりますが、まずは自分の身体の声や自然のリズムに耳をすましてみたいですね。

マインドフルの練習(231)
靴下をはいてみます。
できるだけゆっくりとはいてみましょう。
つま先から土ふまず、かかと、そして足首からふくらはぎのほうまで、靴下の感触をたしかめながらはいていきます。
はきおわったら、今度はその逆に、ゆっくりと脱いでみましょう。
はくときと脱ぐとき、どんな感じがするでしょうか。どのようにちがっていますか?

2014年8月13日水曜日

マインドフルな8月13日

ひどい猛暑の日々のあと、台風がいくつか通過して、雨が降り、今日は涼しい朝です。
散歩に出てみましょう。
雨が降ったあとの空気は独特のにおいがします。
濡れた木々のにおい、道路のにおい、落ち葉のにおい。
水滴をためた葉っぱは重くたれ、花もたわんでいます。
電線からときおり水滴が落ちてきて、肩を濡らしたりします。
音もなんだかよくとおるような気がして、カラスの鳴き声もやけに遠くから聞こえるように思います。
そろそろ秋の虫が鳴きだしています。

マインドフルの練習(230)
コップに氷をいくつか入れ、氷が半分くらいひたるくらい水を入れます。
コップの口に耳をあて、氷がとける音を聞いてみましょう。
ついで、コップを揺すって氷がガラスにあたる音を聞いてみましょう。
揺すっていると、やがて氷は水にとけ、音もだんだん変化していきます。
その変化する音に耳をすませてみましょう。

2014年8月12日火曜日

マインドフルな8月12日

私が住んでいる世田谷区は、東京でももっとも人口の多い区で、人口密集地でもありますが、もともとは田畑が広がる農村部で、のんびりした地域だったようです。
そのせいか、広い敷地の屋敷や畑が、まだところどころ残っています。
私が住んでいる羽根木という地域も、羽根木公園をはじめとして緑は多く、夏の朝など散歩をしていると避暑地に来たような気分になることがあります。
風、音、におい、空気感、緑、空、雲、そういったものの感じを私たちはいつも無意識に受け取っています。

マインドフルの練習(229)
爪を切るときに呼吸を忘れないようにする、という練習はすでに一度やりましたが、今回は爪を切ることそのものに注目してみましょう。
爪切りを持つ、構える、爪にあてる、爪をはさんでレバーに力を加えます。
ゆっくりと力をいれていくと、やがて「パチン」と爪が切れます。
その過程と「パチン」の感触をゆっくり、じっくりと観察し、味わってみましょう。
指は通常十本あるので、この練習は一度に十回できます。

2014年8月11日月曜日

マインドフルな8月11日

私が早起きを心がけるようになったのは四十歳前後のことだったように思います。
それまでは物書き商売、あるいは音楽やラジオの仕事で夜更けまで仕事していたり、不規則だったりしました。
なるべく規則正しく早起きするようになって、いろいろなことが変わりました。
いまは早起きしてマインドフルネスをこころがけ、できればすこし近所を散歩します。
遠出をするわけではありません。
ほんの五分でいいのです。
いまの季節でも早朝だと涼しいし、寒くないので気持ちよく散歩できます。
毎日そうしていると、自分のことも含め、いろいろなことが日々変化していることに気づきます。

マインドフルの練習(228)
風雨の強い日はさまざまな音に取りかこまれます。
家の外からどんな音が聞こえてくるか、耳をすませてみましょう。
風の音、雨の音、なにかが飛んでくる音、またいつもの車が通りすぎる音もいつもとはちがったように聞こえるかもしれません。
音楽を聴くように、つぶさに味わいながら聴いてみましょう。

2014年8月10日日曜日

マインドフルな8月10日

ネットで人の書きこみに対してむやみに攻撃してくる人にはどんな理由があるのでしょう。
なにか自分が大切にしている価値観があって、それにそぐわない書きこみやメッセージを見るとそれを放置しておけなくて、攻撃の対象にしてしまいます。
ふつうなら自分が気にいらないものを見てもただ無視すればいいし、その人の書きこみを見たくなかったらフォローをはずしたりブロックしたり、ただ見ないようにすればいいのに、それをせずにわざわざ攻撃のメッセージを書きこむというのは、よほど強い動機があると見ればいいでしょう。
自分の価値を守りたい、相手を攻撃することによって自分の正当性を確認したい、自分の価値を侵害されないかという恐怖が動機となって相手を攻撃する、などなど。
恐怖におびえた犬ほど激しく牙をむいて吠えかかるものですが、それは自分を守りたいにすぎません。

マインドフルの練習(227)
ペットボトルのお茶や水、清涼飲料水を飲む機会があったら、そのキャップに注目してみましょう。
まだあいていないキャップをあけるとき、その感触をゆっくりとたしかめながらあけてみます。
指に力をこめて反時計回りにまわしていくと、キャップがゆるみ、まず固定されていた部分がパチッと切れます。
かたかったキャップが急にゆるみ、なめらかに回るようになります。
さらにゆるめていくと、さらにキャップはゆるくなり、最後にはボトルから離れます。
その過程を全部味わいながら観察してみましょう。

2014年8月9日土曜日

マインドフルな8月9日

ブログやツイッター、フェイスブックでなにか書いたり、意見を述べたりすると、かならずなにか文句をいう人がどこからともなく現れてきます。
知人や友人からもコメントがつきますが、まったく知らない人から敬語略でいきなり文句をいわれてびっくりすることもあります。
それがこわくてネットから遠ざかってしまった人を、私は何人も知っています。
見知らぬはずのこちらをきつい言葉で攻撃する相手の意図がわからず、恐怖を感じたりします。
そういうとき、こちらは思わず萎縮して、相手の怒りをしずめるにはどうしたらいいだろうか、なにか言い訳をしたほうがいいのだろうか、書きこみを削除したほうがいいだろうか、相手をブロックしようか、などとおろおろしてしまいます。
そんな必要はなく、まずは相手のニーズを推測してみましょう。

マインドフルの練習(226)
たまには立ちどまって、空を見上げてみましょう。
晴れていれば青空が見えるでしょう。
雲が浮かんでいるかもしれません。
雲が見えたら、それを観察してみましょう。
雲はどんなに静かな空であってもかならず動いています。
しばらく見ていると、いつのまにか形が変わっていたり、移動してたりします。
雲を観察しながら、どうじに雲を観察している自分の身体のようすも観察してみましょう。

2014年8月8日金曜日

マインドフルな8月8日

なにか話そうとしたり、人に伝えようとして、なぜか自分の声がぼそぼそと小さくはっきりしななってしまったり、口ごもったりしてしまうことがあります。
そういうとき、「かんがえがまとまっていないせいだ」とか「自信がないからだ」とか自分を裁いてしまいますが、そういうときこそ「自分の声」をよく聴いてあげる必要があります。
本当はなにか別のことをいいたい、まず自分自身に聴いてもらいたい身体やこころの声がある、そういうときはまずちょっと落ち着き、マインドフルネスをこころがけて自分の内なる声に耳をすませてみます。
いま本当に自分がいいたいこと、必要としていることはなんなのか。
ときにはすこし時間を取って、相手に待ってもらう必要があるかもしれません。

マインドフルの練習(225)
私たちは毎日、たくさんのメールを読んだり書いたりしています。
それをときどき、声に出して読みあげてみましょう。
とくに自分が書いた文章を音読してみたとき、思いがけないことに気づくことがあります。
頭と手だけで書いた自分の文章を、声に出してみる、いわば立体化・肉体化してみるのです。

2014年8月7日木曜日

マインドフルな8月7日

子どもがいる人なら自分の子どもが、いなくても親戚の子どもや、あるいは知り合いが、なんだかぼそぼそとこちらに聞こえるか聞こえないかくらいの声でなにかをいうのに接したことがあると思います。
そういうとき「はっきりしゃべりなよ」とこちらはイライラしてしまったりするんですが、相手はこちらに聞かれたくなくでぼそぼそしゃべっているのではありません。
むしろ逆で、むしろ全身で「こちらのいうことを聞いてよ!」と主張していることがあります。
とくに思春期の子どもにはそれが多いようです。
自分を伝えたい、しかし伝わらないかもしれない、相手は自分を尊重していないかもしれない、しかし自立した人間として認められたい、いろいろまじりあってはっきりしないことばの表現になっていますが、実は全身で雄弁に語っていたりします。

マインドフルの練習(224)
仰向けに寝転がって声を出してみましょう。
大きな声を出す必要はありません。
口を閉じ、鼻から声を出す「ハミング」です。
「んー」と声を出しながら、自分の身体を観察してみましょう。
声が身体で響くようす、息が出ていって胸が動くようすなど、しっかりと感受してみます。

2014年8月6日水曜日

マインドフルな8月6日

自分が表現することの目的を自分の外側に置き、「だれかのために」とか「みなさんに喜んでもらうため」というふうにいう人がいます。
そういう人に私は聞いてみたいことがあります。
「みなさんに喜んでもらうことによってあなたのなにが満たされますか?」
表現の目的が自分の外側にある場合、それは純粋ではなく、力もありません。
表現の動機が自分の内側にあり、それにしっかりつながって「いまここ」を生きているとき、その表現は純粋で力強いものになります。
ここでいう表現とは、音楽や朗読だけではありません、料理したり仕事したりといった日常生活のおこないも含まれます。

マインドフルの練習(223)
呼吸につながり、マンドフルネスを意識しながら、玉ねぎの皮をむいてみます。
皮がむけるときのぱりぱりした感触や、立ちのぼってくるにおいを、全部受け取ってみましょう。
とくに玉ねぎは香りの強い野菜ですから、その香りに十分に注意をむけて味わってみます。
味わったら、まな板の上でスライスしてみます。
ざくざくと玉ねぎの組織が断ち切られていく感触、さらに立ちあがってくる強い香りをしっかりと受け取ってみましょう。

2014年8月5日火曜日

マインドフルな8月5日

純粋にこういうことをやりたい、このように表現したい、と思ってそれをおこなったとき、社会のなかではかならずそれにたいする「反応」があります。
すると、人間には記憶力や想像力がありますから、つぎになにかおこなおうとしたときにあらかじめ「反応」を予測してしまいます。
「前回やったときにはこうだったから、つぎはこういうふうにやればウケるかな」
といったふうに想像をめぐらせてしまいがちです。
すると、最初にあった自分のおこない・表現の「純粋さ」がそこなわれてしまうことになります。
ときに人の記憶力や想像力は、その人の純粋な表現の邪魔をすることがあります。

マインドフルの練習(222)
洗いあげた丸のままのトマトをまな板の上に乗せ、包丁で切ります。
表面の皮が張っていて、刃がにぶった包丁だとすべって切りにくいかもしれませんね。
そういうときは刃先からいれて切ります。
包丁の刃が皮を切り、なかの柔らかい肉や種のつまったゼリー状の部分を切るときの感触を、じっくりと観察してみましょう。
そしてその感触を受け取っている自分自身の体感も観てみます。

2014年8月4日月曜日

マインドフルな8月4日

日常的な行為や表現行為も、現代では金銭価値に換算されることがあります。
子育てや家事といったことまで金銭に換算され、専業主婦と外に働きに出ている夫のどちらがえらいか、などという比較までされます。
比較するようなことではないと思うのですが。
表現行為にも値段がつけられ、より高かったり、よりたくさんお金を集められる表現のほうがえらいというふうに、社会的無意識のなかでも規定されてしまいます。
しかし、人の表現行為はもともと、金銭とはなんの関係もないものではないでしょうか。
全然お金をかせげない表現者のなかにも、すばらしい人はたくさんいます。
そのことに気づいていくことは、私たちの人生そのものを彩りゆたかなものにしていきます。

マインドフルの練習(221)
トマトを流水で洗います。
両手で持ってトマトの表面を指でこすると、ざらっとした感触があったり、それが取れてつるつるになったりします。
表面はやわらかいでしょうか、硬いでしょうか。
指先ですこし押してみるとへこむでしょうか。
両手の指さきでしばらくトマトを味わってみてください。

2014年8月3日日曜日

マインドフルな8月3日

ものごとにはさまざまな価値があり、おなじものでも人によって価値あるものだったり、そうでなかったりします。
いまの世界は経済が力を持ち、なにごとも金銭的な価値に置きかえられる傾向があります。
しかし、お金で換算できないものは多く、むしろそちらのほうが多いということを忘れてしまう人もいます。
たとえば私は道ばたに咲いている花を見て、きれいだなと思います。
そういうものをまったく見られなくなるとしたら残念だし、またそのような世界はいやだと感じます。
しかし、道ばたの花を金銭価値で表現することはできません。
私たちが日々おこなっていることも、大部分は金銭換算することができません。

マインドフルの練習(220)
キュウリを切るときの包丁の動きや感触に注目してみてください。
表面は比較的かための皮がありますから、まずそこに包丁をいれるときはすこし抵抗があるかもしれません。
その抵抗を押しきって実のほうを切ると、包丁はスムーズに動いて、キュウリはスライスされるでしょう。
最後に包丁の刃がまな板にあたり、止まります。
ゆっくりと包丁を動かして、その感触を観察しながら、キュウリをスライスしてみてください。

2014年8月2日土曜日

マインドフルな8月2日

せっかちでものごとを待っていられない、自分のペースでものごとが進行しないとイライラする、という短気な人は、なにが原因でそうなるのでしょう。
自分の予定どおりにものごとが進むこと、自分が慣れ親しんだ方法でものごとがおこなわれること、それからはずれたことを人がおこなっていたり、自分がしいられたりするとき、イライラして、せっかちだといわれたり、自分でもせっかちだと判断したりしてしまいます。
そこには、予定されたことが予定どおりに進んだり、自分のペースや方法で運ばれていくことで、安心したい、危険を避けたいという気持ちが大きくあります。
せっかちとか短気とか思われたり、自分でも思っている人のなかには、安心や安全のニーズがたくさんあるのかもしれません。

マインドフルの練習(219)
マインドフル料理に取りかかってみましょう。
まずは材料の下ごしらえです。
キュウリをまな板の上に乗せて、それを包丁で薄切りにします。
ななめに包丁をかまえ、キュウリをスライスしていきますが、そのときの自分の身体はどうなっているのか、観察してみてください。
緊張していますか? それともリラックスしていますか? 足の裏の感覚はありますか? 頭はどのように胴体の上に乗っていますか?
キュウリを切ろうとしている自分の身体に意識を向けてみます。

2014年8月1日金曜日

マインドフルな8月1日

私は短気だ、という人がいます。
気が短くて、なにごとものんびりしていられない、という性質です。
私自身もそういうところがすこしあるように思っていますが、さて、短気というのはどういうことでしょうか。
たとえばだれかと待ちあわせをしていて、相手が時間通り来なかったりするとすぐにイライラする。
のんびり待っていられなくて、すぐにつぎの予定に移動してしまう。
効率を大事にしているんでしょうか、それともべつの理由があるんでしょうか。
よくかんがえてみると、短気というのはその人の内側にあるものではなく、外側に向けられたなにかによって引きおこされるような気がします。
相手から尊重してもらいたい、といったような。

マインドフルの練習(218)
料理をするのはとてもよいマインドフルの練習の時間になります。
料理をするのが苦手とか、ふだんめったに料理をしないといった人も、たまには台所に立って、簡単なものでいいですから料理してみましょう。
まずは材料をそろえるところからマインドフルネスをこころがけます。
キュウリやトマトの感触、玉ねぎのにおいや重さ、そういったものを手にとり、まずはあじわってみましょう。
そこからマインドフル料理がはじまります。