2013年2月12日火曜日

2月12日


◎今日のテキスト

 吾輩《わがはい》は猫である。名前はまだ無い。
 どこで生れたかとんと見当《けんとう》がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪《どうあく》な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕《つかま》えて煮《に》て食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の掌《てのひら》に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。
 ――夏目漱石『吾輩は猫である』より

◎日めくり366日最終回

 この「音読日めくり」も今回で366回となり、これで終了する。閏年だったので366回でちょうど一年、ただの一日も欠かすことなく連載できた。これもご愛読いただいた皆さんのおかげである。
 読んでくれた方はもちろん、実際に声を出して音読してくれた方も多かったと聞いている。音読したものを録音し、ネットで流してくれた人も何人かいる。そういう方々のおかげで一日も欠かさずつづけられたのだと思う。ここにあらためてお礼を申し上げる。
 音読日めくりはここでいったん終了となるが、またいずれ形を変えてなにか始めるかもしれない。そのときにはまたお付き合いいただきますよ。
 みなさんの日々にイキイキした呼吸があり、マインドフルにすごせることをお祈りして、いったんここでお別れとする。ではまた、ごきげんよう、さようなら。

2013年2月11日月曜日

2月11日


◎今日のテキスト

 親譲《おやゆず》りの無鉄砲《むてっぽう》で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇《むやみ》をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談《じょうだん》に、いくら威張《いば》っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃《はや》したからである。小使《こづかい》に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼《め》をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴《やつ》があるかと云《い》ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。
 ――夏目漱石『坊っちゃん』より

◎音読療法がめざすもの

 音読療法はだれもがいつでも、特別な道具を使わなくてもおこなえるセルフメンタルケアのすぐれた方法だ。現代社会において心身の不調を抱えていたり、その予防に気を配っている人は多い。そういう人たちに簡便で、しかし効果的な方法を提供しようとして体系化されたのが音読療法だ。
 学生、新社会人、中間管理職、主婦など、あらゆる層にうつの傾向が広がっている。それらに対処したり予防することにも音読療法はシンプルながら大きな力を持っている。また、高齢化社会を迎えて、だれもが元気なまま年を重ねたいと願っている。介護予防にも音読療法は一役買うことができるだろう。
 ひとりでも多くの人が音読療法を身につけ、イキイキと人生を楽しんでくれることを私は願っている。

2013年2月10日日曜日

2月10日


◎今日のテキスト

 何年頃であったか忘れてしまったが、先生の千駄木《せんだぎ》時代に、晩春のある日、一緒に音楽学校の演奏会に行った帰りに、上野の森をブラブラあるいて帰った。
 その日の曲目の内に管弦楽で蛙の鳴声を真似するのがあった、それはよほど滑稽味を帯びたものであった。先生はあるきながら、その蛙の声を真似して一人で面白がってはさもくすぐったいように笑っておられた。
 それから神田の宝亭で、先生の好きな青豆のスープと小鳥のロースか何か食ってそして一、二杯の酒に顔を赤くして、例の蛙の鳴声の真似をして笑っていた。
 考えてみると、あの時分の先生と晩年の先生とは何だかだいぶちがった人のような気がするのである。
 ――寺田寅彦「蛙の鳴声」

◎ルーティーンのなかから気づきが生まれる(二)

 音読療法でも呼吸法、発声・音読について、自分なりの手順を決めておくといい。とくに呼吸法は、できれば毎日おなじ手順、おなじ回数を、おなじペースでおなじ時間帯に繰り返すように決めておく。そうすると、今日は身体の調子がいいなとか、悪いなとか、どこか違和感があることにすぐに気づける。
 声を出すことも、喉の調子ばかりでなく、気持ちや身体全体の変化に気づくきっかけになる。
 読むテキストも目先を変えてあれこれ手を出すのもいいが、いつも決まって読むものもいくつか決めておくといい。

2013年2月9日土曜日

2月9日


◎今日のテキスト

どこかで「春」が 生まれてる
どこかで水が 流れ出す

どこかで雲雀《ひばり》が 啼《な》いている
どこかで芽《め》の出る 音がする

山の三月《さんがつ》 東風《こち》吹いて
どこかで「春」が うまれてる

 ――百田宗治「どこかで春が」

◎ルーティーンのなかから気づきが生まれる(一)

 武道や芸事、宗教など、「修行」をおこなうものはかならずそれが手順化されている。毎日、おなじ時間におなじ場所でおなじことをする。これを「忍耐」をやしなうためにおこなう修行だと思っている人がいるが、実は違う。
 毎日おなじことを繰り返さなければわからないことがある。それはおなじことを繰り返していても、毎回微細に違っている、ということだ。時間が移り変わり、自分自身の身体のなかもたえず変化しつづけている。おなじことをやっても微細に違っていることに気づけるようになるかどうか。
 毎日、目先を変えてどんどん目新しいことばかりやっていては、微細な変化に気づきにくくなってしまう。

2013年2月8日金曜日

2月8日


◎今日のテキスト

 文壇の、或《あ》る老大家が亡《な》くなって、その告別式の終り頃から、雨が降りはじめた。早春の雨である。
 その帰り、二人の男が相合傘《あいあいがさ》で歩いている。いずれも、その逝去《せいきょ》した老大家には、お義理一ぺん、話題は、女に就《つ》いての、極《きわ》めて不きんしんな事。紋服の初老の大男は、文士。それよりずっと若いロイド眼鏡《めがね》、縞《しま》ズボンの好男子は、編集者。
「あいつも、」と文士は言う。「女が好きだったらしいな。お前も、そろそろ年貢《ねんぐ》のおさめ時じゃねえのか。やつれたぜ。」
「全部、やめるつもりでいるんです。」
 その編集者は、顔を赤くして答える。
 ――太宰治『グッド・バイ』より

◎ことばには意味と音がある(四)

 文章以前に音声としてあるものが、音読であり、朗読表現だ。表現である以上、音をどう扱うかについての選択肢は表現者の側にある。音を出すも出さないも、朗読者の選択だ。
「そ・◎・ば・か・◎・し・て・い・◎(損ばかりしている)」
 と音節を無音にして読むことも、選択肢としてありうる。こう読まねばならない、ということは一切ないし、こう読んではならない、ということも一切ない。あるのは「どう読みたいか」という自分自身との対話とそこから生まれる選択肢だ。

2013年2月7日木曜日

2月7日


◎今日のテキスト

 私は、犬については自信がある。いつの日か、かならず喰《く》いつかれるであろうという自信である。私は、きっと噛《か》まれるにちがいない。自信があるのである。よくぞ、きょうまで喰いつかれもせず無事に過してきたものだと不思議な気さえしているのである。諸君、犬は猛獣である。馬を斃《たお》し、たまさかには獅子《しし》と戦ってさえこれを征服するとかいうではないか。さもありなんと私はひとり淋しく首肯《しゅこう》しているのだ。あの犬の、鋭い牙《きば》を見るがよい。ただものではない。いまは、あのように街路で無心のふうを装い、とるに足らぬもののごとくみずから卑下して、芥箱《ごみばこ》を覗《のぞ》きまわったりなどしてみせているが、もともと馬を斃すほどの猛獣である。いつなんどき、怒り狂い、その本性を暴露するか、わかったものではない。
 ――太宰治「畜犬談」より

◎ことばには意味と音がある(三)

 文節にはさらにこまかく「音節」の要素もある。『坊っちゃん』冒頭文の末尾「損ばかりしている」という文節も、意味にばかりとらわれて読んでしまうと「音節」という音としての要素がなおざりにされ、語尾が消えてしまうことがある。
 この部分は「そ・ん・ば・か・り・し・て・い・る」という九つの音節で成りたっている。音楽でいえば、九つの音符が並んでいると思っていい。九つの音符が並んでいれば、どれひとつとしておろそかにしては演奏しない。音読もそれとおなじことだろう。

2013年2月6日水曜日

2月6日


◎今日のテキスト

 私は彫刻家である。
 多分そのせいであろうが、私にとって此世界は触覚である。触覚はいちばん幼稚な感覚だと言われているが、しかも其れだからいちばん根源的なものであると言える。彫刻はいちばん根源的な芸術である。
 私の薬指の腹は、磨いた鏡面の凹凸を触知する。此は此頃偶然に気のついたことであるが、ガラスにも横縦がある。眼をつぶって普通の玻璃《はり》面を撫でてみると、それは丁度木目の通った桐のサツマ下駄のようなものである。磨いた鏡面はさすがにサツマ下駄でもないが、わずか五寸に足りない長さの間にも二つ程の波がある事を指の腹は知るのである。
 ――高村光太郎「触覚の世界」より

◎ことばには意味と音がある(二)

 朗読するための文学作品などのテキストは、文の集まりから成り立っている。この「文」が朗読するときのひとつの単位とかんがえている人が多いし、またそういう側面はたしかにあるのだが、このかんがえかたは「意味」にかたよりすぎていると私はかんがえている。
 文はこまかく見れば、さらにつぎのような要素で成り立っている。
「文」「文節」「音節」「音素」
 文と音節には「意味」がつきまとう。「親譲りの」「無鉄砲で」というふうに、ことばの意味を受け取りながら読む人が多い。

2013年2月5日火曜日

2月5日


◎今日のテキスト

 発行所の庭にはまず一本の棕梠《しゅろ》の木がある。春になつて粟粒を固めた袋のやうな花の簇出《そうしゅつ》したのを見て驚いたのは、もう五六年も前の事である。それ迄棕梠の花というものは、私は見た事がなかったのである。見た事はあっても心に留まらなかったのである。それがこの家に移り住むようになって新しく毎日見る棕梠の梢から、黄いろい若干の袋が日に増し大きくなって来るのを見て始めて棕梠の花というものを知った時は一つの驚異であった。その後の棕梠には格別の変化も無い。梢から矢の如く新しい沢山の葉が放出すると同時に、下葉の方は葉先から赤くなって来て幹に添うて垂下して段々と枯れて行く。この新陳代謝は絶えず行われつつある。
 ――高浜虚子「発行所の庭木」より

◎ことばには意味と音がある(一)

 音読においてかなりの頻度で相談を受けることがあるのが、「読むときに語尾が消えがちになる癖があるんですが、どうすればいいですか」というものだ。たとえば、夏目漱石『坊っちゃん』の冒頭だったら、
「親譲りの無鉄砲で子どもの時から損ばかりしている」
という文章の「している」の「る」が消えてしまうというのだ。
これには明確に理由があるし、その癖を治すことも比較的簡単だ。

2013年2月4日月曜日

2月4日


◎今日のテキスト

 蓮華寺《れんげじ》では下宿を兼ねた。瀬川丑松《うしまつ》が急に転宿《やどがえ》を思い立って、借りることにした部屋といふのは、其蔵裏《くり》つづきにある二階の角のところ。寺は信州下水内郡《しもみのちごほり》飯山町二十何ヶ寺の一つ、真宗に附属する古刹《こせつ》で、丁度其二階の窓に倚凭《よりかか》って眺めると、銀杏《いちょう》の大木を経《へだ》てて飯山の町の一部分も見える。さすが信州第一の仏教の地、古代を眼前《めのまえ》に見るような小都会、奇異な北国風の屋造《やづくり》、板葺の屋根、または冬期の雪除《ゆきよけ》として使用する特別の軒庇《のきびさし》から、ところどころに高く顕《あらわ》れた寺院と樹木の梢まで――すべて旧めかしい町の光景《ありさま》が香の烟《けぶり》の中に包まれて見える。ただ一際《ひときわ》目立って此窓から望まれるものと言えば、現に丑松が奉職して居る其小学校の白く塗つた建築物《たてもの》であった。
 ――島崎藤村『破戒』より

◎アレクサンダーテクニーク(三)

 アレクサンダーテクニークのもっとも重要なポイントは、無意識にやってしまっている頭を胴体に押しつける動作を、ただ「やめる」というところから出発する。頭が胴体に押しつけられているとき、いくつかの筋肉が収縮しているのだが、その収縮をただ「やめる」。
 すると押しつけられた頭は脊椎の上で自由になり、繊細にバランスを保つようになる。バスケットボールを人差し指の上でバランスを取るように、頭部を脊椎のてっぺんで繊細にバランスを取ると、身体の動きはおどろくほど軽やかになる。

2013年2月3日日曜日

2月3日


◎今日のテキスト

 海を見たことがないという山奥の子供でも汽車や自動車は見なれているという文化交通時代であるが、紀伊半島を一周する汽車線はいまだに完成していない。また、紀州の南端から大台ヶ原を通って吉野へ現れるには、どうしても数日テクる以外に手がないのである。吉野の入口から自動車にのると上の千本までしか登れない。奥の千本へ行くにもテクらなければダメなんだから、大峰山や大台ヶ原は今もって鏡花先生の高野聖時代さ。交通文明というものに完璧に見すてられている山また山の難路なのである。ところが昔の神々は目のつけ場所がちがう。ここが日本で一番早くひらけていた交通路の一ツなんだね。
 ――坂口安吾『安吾の新日本地理』「飛鳥の幻――吉野・大和の巻――」より

◎アレクサンダーテクニーク(二)

 人はさまざまな理由から、てっぺんに乗せている頭をついつい胴体(脊椎)のほうに押しつけてしまう動作をする癖を身につけていることが多い。その原因は、頭の重さやバランスだったり、あるいはストレスだったりする。
 人にかぎらず動物は物理的ストレス(つまり危険)を感じると、反射的に生命維持にもっとも重要な頭部を守ろうとして首をキュッとすくめる。危険反射なのだが、まったくおなじ動作が心理的ストレスでも起こる。結果的に頭を胴体に押しつける、という癖が身についてしまう。
 わざとやってみるとわかるが、頭を胴体に押しつけると、身体の動きが急に不自由になる。呼吸さえ窮屈になる。声を出しにくくなる。逆に押しつける動作をやめると、とたんにいろいろなところが自由になる。実際に試してみてほしい。

2013年2月2日土曜日

2月2日


◎今日のテキスト

 蚤という昆虫は夏分になると至るところに居るが、安眠を妨害して、困りものである。
 生れ故郷の村にも蚤は沢山いたが、東京という大都会には蚤なんか居ないだろうと想像して、さて東京に来てみると、東京にも蚤が沢山いた。
 それは明治二十九年時分の話で、僕は浅草の三筋町に住んでいた。その家(浅草医院といった)の診察室に絨緞が敷いてあったが、その絨緞を一寸めくると、蚤の幼虫も沢山つかまえることが出来た。それから繭をつくって、蛹《さなぎ》になったのも居た。僕はそれ等をあつめ、重曹の明瓶などに飼っていたことがある。
 ――斎藤茂吉「蚤」より

◎アレクサンダーテクニーク(一)

 音読療法とは少し違うが、ちょっと隣接した分野のような感じがするものに「アレクサンダーテクニーク」というものがある。これは1869年生まれの俳優フレデリック・アレクサンダーが発見し、体系化した身体の使い方に関する基本的な技術で、非常にシンプルな原理でできている。その客観性と論理性が私はとても好きで、ずっと習っているのだが、気がついたらアレクサンダーテクニークに初めて接して以来もう足かけ七年もたっている。
 アレクサンダーテクニークでもっとも重要なのは、頭と脊椎の関係性だ。大脳を発達させたヒトが直立歩行をするようになって以来、これがもっとも重要なポイントになったことはうなずけるし、体感としても腑に落ちる。

2013年2月1日金曜日

2月1日


◎今日のテキスト

 仕事をしながら、龍介は、今日はどうするかと、思った。もう少しで八時だった。仕事が長びいて半端《はんぱ》な時間になると、龍介はいつでもこの事で迷った。
 地下室に下りていって、外套箱《がいとうばこ》を開《あ》けオーバーを出して着ながら、すぐに八時二十分の汽車で郊外の家へ帰ろうと思った。停車場は銀行から二町もなかった。自家《うち》も停車場の近所だったから、すぐ彼はうちへ帰れて読みかけの本が読めるのだった。その本は少し根気の要《い》るむずかしいものだったが、龍介はその事について今興味があった。彼には、彼の癖として何かのつまずきで、よくそれっきり読めずに、放ってしまう本がたくさんあった。
 龍介はとにかく今日は真直《まっすぐ》に帰ろうと思った。
 ――小林多喜二「雪の夜」より

◎動きながら音読してみる

 音読・朗読というとついつい座って読むものと思いこみがちで、せいぜい立って読むくらいしかかんがえつかないが、いろいろ動きながら読んでみるのもおもしろい。
 歩きながら読む、立ったり座ったりしながら読む、寝転んだまま読む、身体をひねりながら読む。それぞれ身体つきが変わり、身体の内部構造も変化するので、当然声にも変化があらわれる。声ばかりでなく、心理面にも変化があらわれることに気づくかもしれない。
 気分が変わると身体つきや構えが変わるのだが、逆に身体つきや構えを変えることで気持ちが変わる。そのことを声の変化から観察できる。