2012年11月30日金曜日

11月30日


◎今日のテキスト

 敬太郎《けいたろう》はそれほど験《げん》の見えないこの間からの運動と奔走に少し厭気《いやき》が注《さ》して来た。元々頑丈《がんじょう》にできた身体《からだ》だから単に馳《か》け歩くという労力だけなら大して苦にもなるまいとは自分でも承知しているが、思う事が引っ懸《かか》ったなり居据《いすわ》って動かなかったり、または引っ懸ろうとして手を出す途端《とたん》にすぽりと外《はず》れたりする反間《へま》が度重《たびかさ》なるに連れて、身体よりも頭の方がだんだん云う事を聞かなくなって来た。で、今夜は少し癪《しゃく》も手伝って、飲みたくもない麦酒《ビール》をわざとポンポン抜いて、できるだけ快豁《かいかつ》な気分を自分と誘《いざな》って見た。けれどもいつまで経《た》っても、ことさらに借着をして陽気がろうとする自覚が退《の》かないので、しまいに下女を呼んで、そこいらを片づけさした。
 ――夏目漱石『彼岸過迄』より

◎簡単だけど難しい呼吸法(二)

 呼吸法のもっとも基本は「全部吐ききる」と「いっぱいに吸いきる」そして「一定の速度で呼吸する」だ。
 初めての人は、どの程度吐いた状態が自分の「これ以上吐けない」状態なのかよくわからないことがある。また、どの程度吸った状態が「これ以上吸えない」状態なのかわからないこともある。そしていずれの状態も、あるいはどちらかの状態に痛みをおぼえる人もある。また心理的抵抗感で限度まで吐ききる/吸いきることができない人も多い。
 これがきちんとできるようになるには、毎日の練習が必要なのだ。毎日、おなじことを繰り返し、そのなかで自分の変化を観察する。わずかな変化を知ることで、自分がきちんと呼吸できるようになっていくことを観察する。そのことが大切だ。

2012年11月29日木曜日

11月29日


◎今日のテキスト

 梅田《うめだ》の停車場《ステーション》を下《お》りるや否《いな》や自分は母からいいつけられた通り、すぐ俥《くるま》を雇って岡田の家に馳《か》けさせた。岡田は母方の遠縁に当る男であった。自分は彼がはたして母の何に当るかを知らずにただ疎《うと》い親類とばかり覚えていた。
 大阪へ下りるとすぐ彼を訪《と》うたのには理由があった。自分はここへ来る一週間前ある友達と約束をして、今から十日以内に阪地《はんち》で落ち合おう、そうしていっしょに高野《こうや》登りをやろう、もし時日《じじつ》が許すなら、伊勢から名古屋へ廻《まわ》ろう、と取りきめた時、どっちも指定すべき場所をもたないので、自分はつい岡田の氏名と住所を自分の友達に告げたのである。
 ――夏目漱石『行人』より

◎簡単だけど難しい呼吸法(一)

 音読療法では古今東西さまざまに効用があると伝えられている呼吸法を、実際にその効果を確認しながら、子どもやお年寄りにでもできるようなシンプルな方法にまとめてある。
「だれにでもできますよ、毎日やってくださいね」
 とお伝えしているのだが、実はこれがなかなか難しい。
 難しさにはいくつかの理由があって、まず、その継続性を持つだけのモチベーションをどうやって保つか。それから、手抜きせずにきっちりすみずみまでおこなえるかどうか。そして最後に、これが一番重要なのだが、自分の呼吸や身体についての「気づき」を持てるかどうか、ということだ。

2012年11月28日水曜日

11月28日


◎今日のテキスト
 ホラホラ、これが僕の骨だ、
 生きてゐた時の苦労にみちた
 あのけがらはしい肉を破つて、
 しらじらと雨に洗はれ、
 ヌックと出た、骨の尖《さき》。

 それは光沢もない、
 ただいたづらにしらじらと、
 雨を吸収する、
 風に吹かれる、
 幾分空を反映する。

 生きてゐた時に、
 これが食堂の雑踏の中に、
 坐つてゐたこともある、
 みつばのおしたしを食つたこともある、
 と思へばなんとも可笑《をか》しい。

 ――中原中也「骨」より

◎ウイルス性の胃腸炎

 かかってしまった。一晩、嘔吐と発熱で苦しんだが、なんとか一日で回復。こういうときにものをいうのは、免疫力・回復力だ。
 もちろんかからないことが理想ではある。しかし、インフルエンザにせよウイルス性の流行ものはどんなに元気な人でもかかってしまうことがあるから、用心したい。

2012年11月27日火曜日

11月27日


◎今日のテキスト
 隴《ろう》西の李徴は博学才穎《さいえい》、天宝の末年、若くして名を虎榜《こぼう》に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃む所頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。いくばくもなく官を退いた後は、故山、カク略に帰臥し、人と交を絶って、ひたすら詩作に耽った。下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そうとしたのである。しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐うて苦しくなる。李徴は漸く焦燥に駆られて来た。この頃から其の容貌も峭刻となり、肉落ち骨秀で、眼光のみ徒らに烱々として、曾て進士に登第した頃の豐頬の美少年の俤は、何処に求めようもない。数年の後、貧窮に堪えず、妻子の衣食のために遂に節を屈して、再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずることになった。
 ――中島敦「山月記」より

◎私はなぜ自由にピアノを弾けるのか(三)

 幼い子どもを見ていればわかるように、人が成長するのは「遊び」においてだ。なにかを楽しいと感じ、熱中するとき、大きく成長する。
 これができるようになると得する、とか、お金がもうかる、などという打算で努力しても、そこには成長はない。打算もなにもなく、ただ楽しみながら熱中したり、これができるようになりたいと夢中になって努力するとき、成長する。
 私がいまもピアノを楽しんで弾けるのは、このような時間をたくさんすごしてきたからにちがいない。

2012年11月25日日曜日

11月26日




◎今日のテキスト
 住みふるした麻布《あざぶ》の家《いえ》の二階には、どうかすると、鐘の声の聞えてくることがある。
 鐘の声は遠過ぎもせず、また近すぎもしない。何か物を考えている時でもそのために妨げ乱されるようなことはない。そのまま考に沈みながら、静に聴いていられる音色《ねいろ》である。また何事をも考えず、つかれてぼんやりしている時には、それがためになお更ぼんやり、夢でも見ているような心持になる。西洋の詩にいう揺籃《ゆりかご》の歌のような、心持のいい柔な響である。

 ――永井荷風「鐘の声」より

◎私はなぜ自由にピアノを弾けるのか(二)

 振り返ってみると、私がピアノを教師について習っていたのは、小学三年から六年までの四年間だけ。母親が熱心に練習に付き合ってくれて、そのこと自体はいまとなっては感謝しているが、高学年になるとピアノを習うのがいやでいやでしかたがなくなった。そこで頼みこんで、中学生になるのを機にやめた。
 以来、ピアノを人について習ったことはない。が、一度もピアノをやめたことはない。いつもひとりで遊んでいた。弾きたい曲の楽譜を買ってきて、我流で弾いていた。ジャズが好きになったときはそのまねごとをやっていた。が、それもだれかに習ったことはない。
 つまり、私はずっとピアノで遊んでいただけなのだ。

11月25日


◎今日のテキスト
 高い、梢の若葉は、早朝の微風と、和やかな陽光とを、健康そうに喜んでいたが、鬱々とした大木、老樹の下蔭は、薄暗くて、密生した灌木と、雑草とが、未だ濡れていた。
 樵夫《きこり》、猟師でさえ、時々にしか通らない細い径《みち》は、草の中から、ほんの少しのあか土を見せているだけで、両側から、枝が、草が、人の胸へまでも、頭へまでも、からかいかかるくらいに延びていた。
 その細径の、灌木の上へ、草の上へ、陣笠を、肩を、見せたり、隠したりしながら、二人の人が、登って行った。陣笠は、裏金だから士分であろう。前へ行くその人は、六十近い、白髯《しらひげ》の人で、後方《うしろ》のは供人であろうか? 肩から紐で、木箱を腰に垂れていた。二人とも、白い下着の上に黄麻を重ね、裾を端折《はしょ》って、紺脚絆《きゃはん》だ。

 ――直木三十五『南国太平記』より

◎私はなぜ自由にピアノを弾けるのか(一)

 今日は介護予防アーティスト養成講座の3回めだ。この講座のなかで、介護予防のグループセッションで使うための「即興演奏法」を教えている。音大出身の若い人が何人か参加しているのだが、クラシック音楽の教育を受けてきた人は、楽譜がないとなかなか自由に伴奏をしたり、即興演奏をしたり、ということができない。
 演奏技術はあるので、自由に即興ができるようになるとこんなに楽しいことはないだろうと思う。
 即興演奏法を教えながら、ふとかんがえてみた。私は一度も音楽の専門的な教育を受けたことはないのだが、なぜ即興演奏や作曲を楽しんでやれるようになったのだろうか、と。そのなかに、なにかを継続的にトレーニングして上達するということについての重要なヒントが隠されていることを発見した。

2012年11月24日土曜日

11月24日


◎今日のテキスト
 芝田さんの家の門は、ちょっと風変りです。その辺は屋敷町で、コンクリートの塀や、鉄格子の門扉や、御影石の門柱などが多く、至って近代的なのですが、そのなかに、道路より少しひっこんで、高さ一間半ほど、太さ二抱えほどの丸木が、二本立ち並び、木の格子がとりつけてあります。それが芝田さんの家の門です。丸木の門柱の方は、郊外の植木屋さんにでもありそうなもので、古く朽ちかけていますが、木の格子扉の方は、新らしく白々としています。昼間は、その格子扉が左右に開かれていて、中は砂利を敷いた表庭、竹垣で囲ってあり、檜葉の植込が数本、左手が、玄関になっています。
 ――豊島与志雄『白い朝』より

◎人になにかを頼むとき(二)

 うまく頼みごとができたときは、相手はこちらの頼みごとを処理してやることができていい気分になれる。つまり、人に貢献できた、という気持ちになれる。
 人間にはだれかの役に立ちたい、だれかの役に立てることがうれしい、という気持ちが共通にある。その相手の気持ちを見ながら頼みごとをする。そのためには、自分のこともちゃんと伝える必要がある。
「私はこういうことを必要としていて、それをあなたが満たしてくれるとうれしいんですが」
 と伝えることで、相手は自分がこちらの役に立てるのだということを自覚できる。
 なんらかの都合で頼みごとを相手に断られたとしても、相手の都合を大切にして恨みに思わないことが、次なる関係性へとつなげていける。

2012年11月23日金曜日

11月23日


◎今日のテキスト
 玉川に遠いのが第一の失望であった。井《いど》の水が悪いのが差当《さしあた》っての苦痛であった。
 井は勝手口から唯《ただ》六歩《むあし》、ぼろぼろに腐った麦藁屋根《むぎわらやね》が通路《かよいじ》と井を覆《お》うて居る。上窄《うえすぼま》りになった桶の井筒《いづつ》、鉄の車は少し欠けてよく綱がはずれ、釣瓶《つるべ》は一方しか無いので、釣瓶縄の一端を屋根の柱に結《ゆ》わえてある。汲み上げた水が恐ろしく泥臭いのももっとも、錨《いかり》を下ろして見たら、渇水の折からでもあろうが、水深が一尺とはなかった。
 移転の翌日、信者仲間の人達が来て井浚《いどさら》えをやってくれた。鍋蓋《なべぶた》、古手拭、茶碗のかけ、色々の物が揚《あ》がって来て、底は清潔になり、水量も多少は増したが、依然たる赤土水《あかつちみず》の濁り水で、如何に無頓着の彼でもがぶがぶ飲む気になれなかった。近隣《となり》の水を当座は貰って使ったが、何れも似寄った赤土水である。

 ――徳富蘆花「水汲み」より

◎人になにかを頼むとき(一)

 だれかになにかをやってもらいたいとき、人によっては必要以上にへりくだってしまうことがある。
「お忙しいところ大変申し訳ありませんが、これこれこういうことをやっていただけませんか」
 私もそのようにものを頼まれることがよくあるが、なぜかあまりいい気持ちはしない。まず、自分が忙しい人間だと相手から勝手に判断されている、ということと、実際に忙しいときにはあらためてその忙しさを確認させられていやな気分になる。
 では、どのように頼まれたら気分よく頼みごとを引き受ける気持ちになれるだろうか。

2012年11月22日木曜日

11月22日


◎今日のテキスト

 晩飯時間の銀座の資生堂は、いつに変わらず上も下も一杯であった。
 銀子と均平とは、しばらく二階の片隅《かたすみ》の長椅子《ソファ》で席の空《あ》くのを待った後、やがてずっと奥の方の右側の窓際《まどぎわ》のところへ座席をとることができ、銀子の好みでこの食堂での少し上等の方の定食を註文《ちゅうもん》した。均平が大衆的な浅草あたりの食堂へ入ることを覚えたのは、銀子と附き合いたての、もう大分古いことであったが、それ以前にも彼がぐれ出した時分の、舞踏仲間につれられて、下町の盛り場にある横丁のおでん屋やとんかつ屋、小料理屋へ入って、夜更《よふ》けまで飲み食いをした時代もあり、映画の帰りに銀子に誘われて入口に見本の出ているような食堂へ入るのを、そう不愉快にも感じなくなっていた。
 ――徳田秋声「縮図」より

◎骨のやくめ

 骨はカルシウムをメインに、さまざまな無機質と有機質でできている。適度に圧力をかけないとすぐに骨密度が低くなり、骨折しやすく。それだけでなく、一種の「カルシウム貯蔵庫」としての役割もある。
 カルシウムは骨を形成するだけでなく、重要な神経情報伝達物質でもある。血中のカルシウムが足りなくなるとイライラしたり、場合によっては精神病になったりもする。ほかにも運動や、細胞の再生や、生殖に重要な役割を果たしている。
 運動などで骨に適度な付加を与えることで、骨密度をたかめ、安定したカルシウム量を確保することは、心身の健康にとってとても大切なことだ。

2012年11月21日水曜日

11月21日


◎今日のテキスト

 芸術家にして科学を理解し愛好する人も無いではない。また科学者で芸術を鑑賞し享楽する者もずいぶんある。しかし芸術家の中には科学に対して無頓着《むとんちゃく》であるか、あるいは場合によっては一種の反感をいだくものさえあるように見える。また多くの科学者の中には芸術に対して冷淡であるか、あるいはむしろ嫌忌《けんき》の念をいだいているかのように見える人もある。場合によっては芸術を愛する事が科学者としての堕落であり、また恥辱であるように考えている人もあり、あるいは文芸という言葉からすぐに不道徳を連想する潔癖家さえまれにはあるように思われる。
 科学者の天地と芸術家の世界とはそれほど相いれぬものであろうか、これは自分の年来の疑問である。
 ――寺田寅彦「科学者と芸術家」より

◎音読療法が大切にしていること

 音読療法では実証性と客観性を大切にしている。呼吸法にしろ音読エチュードにしろ、なにか一定の効果があると示すことについては、それが実証されるかどうかが大切だし、客観的に見て正当かどうかが重要だ。
 このような考えから、音読療法ではたとえ権威あるだれかがとなえている論をそのまま取りいれることはないし、また主観的でスピリチュアルな文脈も用いることはない。
 簡単な言葉でいえば、科学的で論理的な方法を採用している、ということになる。

2012年11月20日火曜日

11月20日


◎今日のテキスト

 文吉《ぶんきち》は、ある夏休の末のこと、親不知子不知《おやしらずこしらず》の海岸に近い、従兄《いとこ》の家へあそびに行きました。
 そして、毎日従兄と一緒に、浜へつれて行ってもらって、漁夫《りょうし》たちの網をひくのを見たり、沖の方に、一ぱいにうかぶ帆舟を眺《なが》めたりしました。磯《いそ》にうちよせてくる小波《さざなみ》に、さぶさぶ足を洗わせながら、素足で砂の上を歩くのは、わけてたのしいことでした。
 二三日するうちに、文吉は、すっかり、海になれました。従兄につれてもらわなくとも、ひとりで浜へ出かけるようになりました。
 ある日のこと、朝御飯をたべると、すぐに、文吉は浜へ出かけて行きました。からりとよく晴れた日で、お日さまは、沖の方を、あかるくてらしていましたけれど、近く山を背負うた浜のあたりは、まだひやひやした蔭《かげ》になっていました。
 ――土田耕平「さがしもの」より

◎呼吸法を信じる

 音読療法でもおこなう呼吸法は、こころの病の予防や自律神経の不調による体調不良など、さまざまな不具合に大変有効な方法なのだが、あまりにシンプルすぎて「こんなんで効果があるの?」という猜疑心にかられる人が多い。
 多くの人は、なにか効果があることは努力が必要であったり、難しかったり、なにか権威に裏付けられていないとそれを疑う癖がある。
 しかし、呼吸法は古くから多くの人が実践してきたように、たしかに簡単でシンプルなものだが、しっかりした効果を期待できるものだ。

2012年11月19日月曜日

11月19日


◎今日のテキスト

 海岸通りに新しい顔が現われたという噂であった――犬を連れた奥さんが。ドミートリイ・ドミートリチ・グーロフは、ヤールタに来てからもう二週間になり、この土地にも慣れたので、やはりそろそろ新しい顔に興味を持ちだした。ヴェルネ喫茶店に坐っていると、海岸通りを若い奥さんの通って行くのが見えた。小柄な薄色髪《ブロンド》の婦人で、ベレ帽をかぶっている。あとからスピッツ種の白い小犬が駈《か》けて行った。
 それからも彼は、市立公園や辻《つじ》の広場で、日に幾度となくその人に出逢った。彼女は一人っきりで、いつ見ても同じベレをかぶり、白いスピッツ犬を連れて散歩していた。誰ひとり彼女の身許を知った人はなく、ただ簡単に『犬を連れた奥さん』と呼んでいた。
 ――アントン・チェーホフ「犬を連れた奥さん」(訳・神西清)より

◎介護予防アーティスト養成講座の二回め

 昨日は二回めの「介護予防アーティスト養成講座」が池袋のあうるスポットでおこなわれた。
 午前中は運動指導の先生が来られて、高齢者の運動指導法についての講義があった。午後は私が呼吸法と共感的コミュニケーション、そして即興演奏法の講義をおこなった。
 この講座には若い人たちが参加していて、やりがいがある。私にとって、参加者たちに自分の技術を伝えて世の中の役に立ってもらえるようにそれを身につけてもらえること、そのことに貢献できることが望みだ。また、自分自身が獲得してきた技術を伝え、そのことに能力を発揮すること、皆さんの前で自分を表現することの喜びもある。
 そのように自分が大切にしていることを確認しながら講義することで、ぶれずに喜びをもって進めていくことができる。これは自分自身に用いる共感的コミュニケーションでもある。

2012年11月18日日曜日

11月18日


◎今日のテキスト

 私は、独《ひと》りで、きょうまでたたかって来たつもりですが、何だかどうにも負けそうで、心細くてたまらなくなりました。けれども、まさか、いままで軽蔑《けいべつ》しつづけて来た者たちに、どうか仲間にいれて下さい、私が悪うございました、と今さら頼む事も出来ません。私は、やっぱり独りで、下等な酒など飲みながら、私のたたかいを、たたかい続けるよりほか無いんです。
 私のたたかい。それは、一言で言えば、古いものとのたたかいでした。ありきたりの気取りに対するたたかいです。見えすいたお体裁《ていさい》に対するたたかいです。ケチくさい事、ケチくさい者へのたたかいです。
 私は、エホバにだって誓って言えます。私は、そのたたかいの為に、自分の持ち物全部を失いました。そうして、やはり私は独りで、いつも酒を飲まずには居られない気持で、そうして、どうやら、負けそうになって来ました。
 ――太宰治「美男子と煙草」より

◎免疫力がためされる季節がやってきた(三)

 交感神経と副交感神経が昼の活動時間と夜の休息時間に交互にあらわれる自律神経のリズムができていると、免疫系もうまく働き、病気にかかりにくい。ところが、とかく交感神経ばかり働かせてしまうストレスフルな生活がつづく現代人は、自律神経のリズムが狂っていて、鎮静・回復がうまくいかないことが多い。これが悪化すると、自律神経失調症という病気にもなる。
 活発に活動したり、ストレスを受けて交感神経が昂進したときには、しっかりと呼吸法をおこなって副交感神経を昂進させ、鎮静・回復の休息モードにはいれるようにすることが、高い免疫力を保つコツである。これからの季節、とくにそれが有効になるだろう。

2012年11月17日土曜日

11月17日


◎今日のテキスト

 あさ、眼をさますときの気持は、面白い。かくれんぼのとき、押入れの真っ暗い中に、じっと、しゃがんで隠れていて、突然、でこちゃんに、がらっと襖
ふすま
をあけられ、日の光がどっと来て、でこちゃんに、「見つけた!」と大声で言われて、まぶしさ、それから、へんな間の悪さ、それから、胸がどきどきして、着物のまえを合せたりして、ちょっと、てれくさく、押入れから出て来て、急にむかむか腹立たしく、あの感じ、いや、ちがう、あの感じでもない、なんだか、もっとやりきれない。箱をあけると、その中に、また小さい箱があって、その小さい箱をあけると、またその中に、もっと小さい箱があって、そいつをあけると、また、また、小さい箱があって、その小さい箱をあけると、また箱があって、そうして、七つも、八つも、あけていって、とうとうおしまいに、さいころくらいの小さい箱が出て来て、そいつをそっとあけてみて、何もない、からっぽ、あの感じ、少し近い。
 ――太宰治「女生徒」より

◎免疫力がためされる季節がやってきた(二)

 免疫力というのは「鎮静・回復」の身体状態のなかで発揮される。活発に活動していたりストレスを受けて交感神経が優位になっているときには、免疫力は低下している。免疫系より活動系にエネルギーが使われるからだ。
 そのかわり、たくさん活動したあとにしっかり休息を取れば、鎮静・回復系の副交感神経が優位になり、病気耐性である免疫系が働きはじめる。この振幅を利用して免疫力・自己回復力を高めようというのが、ヨガのアーサナ(ポーズ)の原理である。
 問題はストレスにさらされ、過労をしいられている現代人が、なかなか鎮静・回復系の副交感神経を優位にするリズムを日常生活のなかで作ることが難しい、ということだ。

2012年11月16日金曜日

11月16日


◎今日のテキスト

 朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、
「あ」
 と幽《かす》かな叫び声をお挙げになった。
「髪の毛?」
 スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。
「いいえ」
 お母さまは、何事も無かったように、またひらりと一さじ、スウプをお口に流し込み、すましてお顔を横に向け、お勝手の窓の、満開の山桜に視線を送り、そうしてお顔を横に向けたまま、またひらりと一さじ、スウプを小さなお唇のあいだに滑り込ませた。ヒラリ、という形容は、お母さまの場合、決して誇張では無い。婦人雑誌などに出ているお食事のいただき方などとは、てんでまるで、違っていらっしゃる。
 ――太宰治『斜陽』より

◎免疫力がためされる季節がやってきた(一)

 いよいよ寒くなり、風邪やインフルエンザに要注意の季節となってきた。また私も罹患したことがあるのだが、マイコプラズマ肺炎といったものも流行しているらしい。
 免疫力がしっかりしているとこういった伝染性の病気にかかりにくいし、もしかかったとしても回復が早い。免疫力を高めておくことを心がけたい。
 具体的にどうすればいいか、ということだが、いろいろな免疫力アップの方法が世の中には紹介されていたり流行していたりする。音読療法では呼吸法を使って鎮静・回復の神経系である副交感神経を優位にすることで、免疫力の向上をはかる。

2012年11月15日木曜日

11月15日


◎今日のテキスト

 本州の北端の山脈は、ぼんじゅ山脈というのである。せいぜい三四百米《メートル》ほどの丘陵が起伏しているのであるから、ふつうの地図には載っていない。むかし、このへん一帯はひろびろした海であったそうで、義経が家来たちを連れて北へ北へと亡命して行って、はるか蝦夷《えぞ》の土地へ渡ろうとここを船でとおったということである。そのとき、彼等の船が此の山脈へ衝突した。突きあたった跡がいまでも残っている。山脈のまんなかごろのこんもりした小山の中腹にそれがある。約一畝歩《せぶ》ぐらいの赤土の崖がそれなのであった。
 小山は馬禿山《まはげやま》と呼ばれている。ふもとの村から崖を眺めるとはしっている馬の姿に似ているからと言うのであるが、事実は老いぼれた人の横顔に似ていた。
 ――太宰治「魚服記」より

◎音楽療法と音読療法(三)

 音楽療法と音読療法の最大のちがいは、道具を使うか使わないかという点だ。
 道具というのはマラカスやトーンチャイムといった子どもでも扱えるような簡単な楽器のことだが、音楽療法でもそれを使わない場面はあるかもしれない。しかし基本的には参加者に簡単な楽器を渡し、ともに音楽を演奏することでさまざまな感覚を喚起したり、運動機能を向上させたり、といったことをねらう。
 音読療法では道具はいっさい使わない。自分の呼吸、声、身体を使うことで、音楽療法と同等の効果をねらう。なので、どんな人でも、いつでもどこでも思いたったときに、ひとりでもグループでもやれる、という利点がある。もちろん音楽療法より能動的なマインドが必要なので、その分、ある程度の積極性が必要だといえるが、その点については共感的コミュニケーションのなかで自分のニーズにつながって積極的になることを同時に学んでもらっている。

2012年11月14日水曜日

11月14日


◎今日のテキスト

 帯と湯道具を片手に、細紐だけの姿で大鏡に向い、櫛《くし》をつかっていると、おきよが、ちょっと、しげちゃん、あとで話があるんだけど、と云った、――あらたまった調子も妙だが、それよりは、平常は当のおしげをはじめ雇人だけではなく、実の妹のおとしや兄の女房のおつねにまでも、笑い顔一つ見せずつんとしてすまし込んでいるのに、そう云いながら、いかにも親しそうな眼つきでのぞき込んだのが不思議であった。
「なにさ」――生れつき言葉づかいが悪くて客商売の店には向かぬとよくたしなめられるのだが、この時も相手が主人すじの女にもかかわらず、おしげはぶっきら棒に云った。
 ――武田麟太郎「一の酉」より

◎音楽療法と音読療法(二)

 共通点でとくに気づいたのは、「歌詞朗読」の部分だ。音楽療法では唱歌や流行歌の歌詞を提示して、それを歌うのではなく音読する、ということをおこなう。それは音読療法でも似たような方法でおこなう。
 しっかりとした発音・発声をこころがけることで、呼吸筋をととのえたり、舌や表情筋など発声のための筋肉を整えることで、加齢によるおとろえを支えるという効果がある。とくに舌まわりの筋肉は重要で、加齢によっておとろえる嚥下能力を鍛えなおすことで、食事の能力の衰えを食いとめたり、肺炎になりにくくする効果が期待できる。
 そのなかでも、音読療法ではとくに呼吸法をしっかりやる点が、音楽療法とは少し異なっている。

2012年11月13日火曜日

11月13日


◎今日のテキスト

 弁護士のアッタスン氏は、いかつい顔をした男で、微笑なぞ決して浮かべたことがなかった。話をする時は冷ややかで、口数も少なく、話下手だった。感情はあまり外に出さなかった。やせていて、背が高く、そっけなくて、陰気だが、それでいて何となく人好きのするところがあった。気らくな会合などでは、とくに口に合った酒が出たりすると、何かしらとても優しいものが彼の眼から輝いた。実際、それは彼の話の中には決して出て来ないものであった。が、食後の顔の無言のシンボルであるその眼にあらわれ、また、ふだんの行いの中には、もっとたびたび、もっとはっきり、あらわれたのであった。彼は自分に対しては厳格で、自分ひとりの時にはジン酒を飲んで、葡萄酒をがまんした。芝居好きなのに、二十年ものあいだ劇場の入口をくぐったこともなかった。
 ――スティーヴンスン『ジーキル博士とハイド氏の怪事件』(訳・佐々木直次郎)より

◎音楽療法と音読療法(一)

 介護予防アーティスト講座で音楽療法の先生とご一緒させていただいた。
 音楽療法については書物ではさまざまに読んでいたものの、実際に受講したことはなかったので、とても興味深かった。音楽というだれもが親しめる表現を通じてセラピー行為をする、その内容は音読療法にも通じるものが多かった。しかし、逆に、音読療法には音楽療法とは違った側面が多くあり、それはかなり有効なものではないか、という印象を強くした。
 音楽療法と音読療法の共通点と相違点について、あらためてしっかり確認しておきたい。

2012年11月12日月曜日

11月12日


◎今日のテキスト

 この頃咲く花に石竹《せきちく》があります。照り続きで、どんなに乾いた磧《かはら》にも、山道にも、平気で咲いてゐるのはこの花です。茎が折れると、折れたままにその次の節からまた姿勢を持ちなほして、伸びてゆくのはこの花です。細くて、きやしやで、日盛りのあるかないかの風にも、しなしなと揺れるほどの草ですが、針金のやうな強い神経をもつてゐて、多くの草花がへとへとに萎《しな》びかかつてゐる灼熱の真つ昼間を、瞬きもせず澄みきつた眼を開いて、太陽を見つめてゐるのはこの花です。茎を折つても、水気ひとつ出るではなし、線香のやうに乾いた髄を通して、生命が呼吸してゐるのはこの花です。砂の夢。灼《や》けつく石の夢。そしてまたどんな貧しい土地にも、根をおろして伸びてゆく不思議な「生命」の石竹色の夢。
 ――薄田泣菫「石竹」

◎介護予防アーティスト講座が開講

 昨日、NPO法人 Art Beat Heart が主催する介護予防アーティスト講座の初回が開催された。私はメイン講師として参加しているのだが、ほかにも音楽療法のベテラン教師や運動機能の専門家が参加するなど、充実した内容の講座となっている。
 残念ながら参加者は少なめだが、若い人ばかりでとても活発な雰囲気の講座になった。
 主催者によれば、ビデオ補講ができるので、2回目からの途中受講も可能だとのこと。なにより30歳未満の方は受講料免除なので、この機会に積極的に参加してほしい。また、こういうことに関心を持ってくれそうな若者の知り合いがいる方は、ぜひ知らせてあげてほしい。

2012年11月11日日曜日

11月11日


◎今日のテキスト

 いつまで生きてていつ死ぬか解らない程、不安な淋しいことはないと、お葉《よう》は考えたのである。しかし人間がこの世に生れ出たその瞬間において、その一生が明らかな数字で表わされてあったならば、決定された淋しさに、終りの近づく不安さに、一日も力ある希望に輝いた日を送ることが、むずかしいかもしれない。けれどもお葉の弱い心は定められない限りない生の淋しさにたえられなくなったのである。そして三十三に死のうと思った時、それがちょうど目ざす光明でもあるかのように、行方のない心のうちにある希望を求め得たかのように、限りない力とひそかな喜びにたえられなかったのである。
 ――素木《しらき》しづ「三十三の死」より

◎頼まれごとをしたとき

 人からなにか面倒な頼まれごとをしたとき、それを喜んでやるか、しぶしぶやるかでは、相手との関係性がまったく変わってしまう。
 引き受けるなら、喜んで引き受ける。しぶしぶ引き受けるくらいなら、断るほうがよい。そして断るときは、喜んで断る。
 喜んで引き受けるときは、自分が相手に貢献できるニーズを満たせると喜ぶのだし、喜んで断るときは、自分のニーズを大切にして引き受けない選択ができたことを喜ぶ。
 しぶしぶ、とか、嫌々、という構えは、人間関係においてなにもよいことを生まない。

2012年11月10日土曜日

11月10日


◎今日のテキスト

 橋本の家の台所では昼飯《ひる》の仕度に忙しかった。平素《ふだん》ですら男の奉公人だけでも、大番頭から小僧まで入れて、都合六人のものが口を預けている。そこへ東京からの客がある。家族を合せると、十三人の食う物は作らねばならぬ。三度々々この仕度をするのは、主婦のお種に取って、一仕事であった。とはいえ、こういう生活に慣れて来たお種は、娘や下婢《おんな》を相手にして、まめまめしく働いた。
 炉辺《ろばた》は広かった。その一部分は艶々《つやつや》と光る戸棚《とだな》や、清潔な板の間で、流許《ながしもと》で用意したものは直にそれを炉の方へ運ぶことが出来た。暗い屋根裏からは、煤《すす》けた竹筒の自在鍵《じざいかぎ》が釣るしてあって、その下で夏でも火が燃えた。この大きな、古風な、どこか厳《いかめ》しい屋造《やづくり》の内へ静かな光線を導くものは、高い明窓《あかりまど》で、その小障子の開いたところから青く透き徹《とお》るような空が見える。
 ――島崎藤村『家』より

◎息を吸うことが苦手な人は

 音読療法をやっていると、時々、息をいっぱいに吸うことが苦手な人がいる。胸が痛いとか、肺がいっぱいになる感覚がよくわからない、などと訴える人がいる。
 そういう人には、すこしずつ分けて息を吸うようにすすめたい。
 一気に肺いっぱいに吸うことをめざさず、ある程度吸ったらいったん息を止める。そこから「空気を食べる」ようにひとかたまりずつ、飲んでは(吸っては)止め、飲んでは止め、ということをくりかえして、肺をふくらませていく。
 痛みが出るようならその手前でやめる。毎日呼吸の練習をすれば、呼吸筋群が整えられていき、しだいに呼吸も安定してくる。

2012年11月9日金曜日

11月9日


◎今日のテキスト

 岩魚《いわな》は、石を食う。石を餌にするわけではないが、山渓の釣り人に言わせると、一両日後に増水があろうという陽気のときには、必ず岩魚は石を食っている。岩魚の腹を割いて、胃袋から小石が出たならば、近日中に台風がくるものと考えてよいと、まことしやかな顔をするのである。
 それは、ほんとうかどうか知らない。だが、小石をまとめた筒の巣のなかに棲んでいる川虫を、石筒のまま岩魚が呑み込んでしまうのは事実である。虫を消化すると、石は自然に排泄されてしまう。
 ――佐藤垢石《こうせき》「石を食う」より

◎顔つき(二)

 日本の場合、民主党と自民党のどちらなのか、テレビに映った顔つきだけで判断するのは(個人的には)とても難しい。現首相などは自民党でしかありえないように見える。
 というのは余談であり、また予断が多分にはいっていると思われるが、その人がどのような性格で、どのような環境で育ち、どのような人生を歩んできたかによって形成される「顔つき」というのは、たしかにあるように思われる。一日中小難しい顔つきをしている人はそれがその人の顔になるだろうし、ずるい顔をしている人はそういう顔つきになる。正直で誠実に生きている人はそういう顔つきになるというのは、科学的分析を持ち出さなくても別段不思議な話ではない。
 最近はめったに耳にすることはないが、昔の人はよく「あの人はいい面構えだ」といったようなことをよくいっていた。現代人はひょっとして、人の顔つきに対する感受性——つまり微細な情報による分析能力——を失いつつある、ということかもしれない。

2012年11月8日木曜日

11月8日


◎今日のテキスト

あおい木 あおい草
思い出をひめて
石碑は静もりて立てり

かなしみも よろこびも
みなながら ふくめて
石碑はさびれて立てり

たそがるれば
思い出はわがむねにかえり
石碑は夕日に更生《よみがえ》れり
 ――桜間中庸《さくらまちゅうよう》『日光浴室』より「石碑」

◎顔つき(一)

「40歳をすぎたら自分の顔に責任を持て」といったのはリンカーンといわれているが、ある人がどういう人生を、あるいはどういう性格を持っているかは、たしかにその顔相に現れているというのは、私も経験的に感じるところがある。
 ところで(いきなりですが)、アメリカ大統領選がおこなわれたが、ニュースに出てくるかの国の人々について、私はちょっとしたゲームをしていた。画面に出ている人が共和党なのか民主党なのか、テロップを見ずに当てる、という個人的ゲームだ。
 ほぼ100パーセントに近い確率で当たったのには、われながら驚いた。

2012年11月7日水曜日

11月7日


◎今日のテキスト

此頃ハ天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、ことの外かはいがられ候て、まず客ぶんのよふなものになり申候。ちかきうちにハ大坂より十里あまりの地ニて、兵庫という所ニて、おゝきに海軍ををしへ候所をこしらへ、又四十間、五十間もある船をこしらへ、でしどもニも四五百人も諸方よりあつまり候事、私初栄太郎(高松太郎)なども其海軍所に稽古学問いたし、時船乗のけいこもいたし、けいこ船の蒸気船をもつて近のうち、土佐の方へも参り申候。
 ――坂本龍馬「文久三年五月十七日 坂本乙女あての手紙」より

◎無数の体験記憶といまここの体験

 秋が深まってきた。たとえば山の紅葉を見るとき、私たちはどんなことをかんがえるだろうか。
 私たちのなかには「紅葉」にまつわるたくさんの記憶があり、年齢を重ねれば重ねるほどそれは多く蓄積されていく。紅葉を見るとき、瞬時にそれらの記憶がよみがえり、いまこの瞬間の紅葉を味わうことから離れ「思い出にひたる」ような思考回路におちいってしまうことがある。
 しかしかんがえてみてもほしいのだが、私たちは思い出のなかに生きているのではない。いまこの瞬間を生きているのだ。いまこの瞬間を全身で味わうことが自分自身を生き生きと形づくっていく。

2012年11月6日火曜日

11月6日


◎今日のテキスト

 匂いって何だろう?
 私は近頃人の話をきいていても、言葉を鼻で嗅ぐようになった。ああ、そんな匂いかと思う。それだけなのだ。つまり頭でききとめて考えるということがなくなったのだから、匂いというのは、頭がカラッポだということなんだろう。
 私は近頃死んだ母が生き返ってきたので恐縮している。私がだんだん母に似てきたのだ。あ、また――私は母を発見するたびにすくんでしまう。
 ――坂口安吾『青鬼の褌を洗う女』より

◎表現すること

 音読療法には「テキストを声をだして読む」ことをするが、これは一種の表現療法ともいえる。
 人は絵を描いたり、音楽を演奏したり、踊ったり、自分を表現する行為のなかで癒しを得ることができる。なにかを表現するというのは自分自身のこころと身体の整合性を作るのに役立つからだ。
 ときどき「自分には表現したいことがない」「なにを表現していいのかわからない」という人がいるが、そんなことを気にやむ必要はない。人は表現したいことがあるから表現するのではなく、表現してみてはじめて自分がなにを表現したかったのか「後からわかる」のだ。つまり表現とは自分を再発見することでもある。これがこころの病から回復したり、防止することに役に立つ。

2012年11月5日月曜日

11月5日


◎今日のテキスト

「おい地獄さ行《え》ぐんだで!」
 二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛《かたつむり》が背のびをしたように延びて、海を抱《かか》え込んでいる函館《はこだて》の街を見ていた。――漁夫は指元まで吸いつくした煙草《たばこ》を唾《つば》と一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹《サイド》をすれずれに落ちて行った。彼は身体《からだ》一杯酒臭かった。
 ――小林多喜二『蟹工船』より

◎人になにかを頼むとき

 だれかになにかを頼むとき——たとえば自分が手の離せない状態にいて、かわりにだれかに必要ななにかを買ってきてもらう必要があるとき、あなたはどのようにいうだろうか。
「申し訳ないけど、○○を買ってきてくれない? 忙しいのにごめんね」
 とかなんとか。
 とてもへりくだるのは日本人の美点でもあり、また欠点でもある。時と場合にもよるが、必要以上にへりくだることはない。
 なにかを相手に頼むとき、相手にしてみればあなたに対して「貢献するニーズ」を満たすチャンスかもしれない。「あなたの、私に対する貢献のニーズを満たすチャンスをあげる」という態度でなにかを頼むことができれば、とても気が楽になるかもしれないし、それは相手にとっても気楽さを確保するかもしれない。

2012年11月4日日曜日

11月4日


◎今日のテキスト

「アナタア、ザンパン、頂だい。」
 子供達は青い眼を持っていた。そして、毛のすり切れてしまった破れ外套《がいとう》にくるまって、頭を襟の中に埋《うず》めるようにすくんでいた。娘もいた。少年もいた。靴が破れていた。そこへ、針のような雪がはみこんでいる。
 松木は、防寒靴をはき、ズボンのポケットに両手を突きこんで、炊事場の入口に立っていた。
 風に吹きつけられた雪が、窓硝子《まどガラス》を押し破りそうに積りかかっていた。谷間の泉から湧き出る水は、その周囲に凍《い》てついて、氷の岩が出来ていた。それが、丁度、地下から突き出て来るように、一昨日よりは昨日、昨日よりは今日の方がより高くもれ上って来た。彼は、やはり西伯利亜《シベリア》だと思った。氷が次第に地上にもれ上って来ることなどは、内地では見られない現象だ。
 ――黒島伝治『渦巻ける烏の群』より

◎1級ボイスセラピスト講座

 今日は1級ボイスセラピスト講座の第4期の後半が開催される。
「後半」というのは、もちろん「前半」があるからだが、それぞれ午前10時から午後5時までほぼ丸一日をついやして勉強する。
 1級の場合、老人ホームや学校、地域コミュニティ、職場などでのグループ音読ワークができるようになるスキルを身につけてもらうのだが、丸二日間をついやしてもなかなかすぐにはひとりでそういった音読ワークができるようにはならない。だから、よりスキルアップしてもらうことと経験をつんでもらうために、繰り返し講座を再受講してもらったり(すべて無償)、先輩たちの音読ワークに手伝いとして積極的に参加してもらうようにしている。

2012年11月3日土曜日

11月3日


◎今日のテキスト

「武蔵野の俤《おもかげ》は今わずかに入間《いるま》郡に残れり」と自分は文政年間にできた地図で見たことがある。そしてその地図に入間郡「小手指原《こてさしはら》久米川は古戦場なり太平記元弘三年五月十一日源平小手指原にて戦うこと一日がうちに三十余たび日暮れは平家三里退きて久米川に陣を取る明れば源氏久米川の陣へ押寄せると載せたるはこのあたりなるべし」と書きこんであるのを読んだことがある。自分は武蔵野の跡のわずかに残っている処とは定めてこの古戦場あたりではあるまいかと思って、一度行ってみるつもりでいてまだ行かないが実際は今もやはりそのとおりであろうかと危ぶんでいる。
 ――国木田独歩『武蔵野』より

◎音読日めくりの一年

 今年の2月13日にスタートしたこの音読日めくり。この日付には深い意味はなく、たんに始めようと思いついてスタートした日付にすぎない。
 スタートしたとき、とにかく1年はつづけようと決めていたのだが、始めてすぐに「これはなかなかに大変なことだ」と思い知った。しかし、読んでくれる人、音声化してくれる人、感想を寄せてくれる人がいてくれるおかげで、なんとかつづけてこれた。
 ふと気づいたら、1年間という期限までにちょうど残り100日となろうとしている。我ながら大きな仕事をしてこれたなと思う。
 そもそも小説家なので、原稿用紙にして800枚をこえる長編小説を書きあげたこともあるし、デビュー作などは書きなおしに書きなおしを重ねて、たぶん1000枚以上書いたと思うが、それ以上にこの「音読日めくり」は自分のなかで大きな仕事という実感がある。
 気合いをいれて残りも丁寧にやりたいと思っている。

2012年11月2日金曜日

11月2日


◎今日のテキスト

 真贄《しんし》の隣に熱意なる者あり。人性の中に若《も》し「熱意」なる原素を取去らば、詩人といふ職業は今日の栄誉を荷《にな》ふこと能はざるべし。すべての情感の底に「熱意」あり。すべての事業の底に熱意あり。凡《すべ》ての愛情の底に熱意あり。若しヒユーマニチーの中に「熱意」なるもの無かりせば、恐らく人間は歴史なき他の四足動物の如くなりしなるべし。
 労働と休眠は物質的人間の大法なり、然れども熱意は眠るべき時に人を醒《さ》ますなり。快楽と安逸は人間の必然の希望なり、然れども熱意は快楽と安逸とを放棄して、苦痛に進入せしむることあり。生は人の欲する所、死は人の恐るる所、然るに熱意は人をして生を捐《す》て、死を甘受する事あらしむ。
 ――北村透谷「熱意」より

◎息を吸うことに難儀がある人

 ながらくうつ病やパニック障害を持っている人たちと接してみると、呼吸法のときに息を吸うことに難儀を訴える人が多いことに気づく。
 息をいっぱいに吸いこむことができない、胸に痛みがあって大きく吸えない、肺がいっぱいになる感覚がわからないなど、表現はさまざまだが、これ以上息を吸えないというところまで肺をいっぱいにすることができない人が多い。
 これらはいずれも、長年にわたる浅い呼吸によってこわばってしまった呼吸筋のせいだ。ゆったりした呼吸法で呼吸筋をほぐし、強化していくことによって、時間をかけてゆっくりと深い呼吸を取りもどすことを心がけるといいだろう。

2012年11月1日木曜日

11月1日


◎今日のテキスト

 空《そら》に真赤《まっか》な雲《くも》のいろ。
 玻璃《はり》に真赤な酒の色。
 なんでこの身が悲しかろ。
 空に真赤な雲のいろ。
 ――北原白秋『邪宗門』より「空に真赤な」

◎非共感的な現代社会(二)

 ペーパーテストで点数をつけられ、序列をつけられる。走ったり飛んだりでは数値を計測され、それもまた序列をつけられる。教師からは努力すれば「上」に行けると教えられ、親からもがんばって成績を上げるように尻をたたかれる。「上」にいけばあたかも幸福が約束されているかのように、競争することを繰り返し教育される。
 人と競争すること、相手よりすこしでも上に立つこと、これが習い症となってしまっている。だから、ただ会話していても相手よりすこしでも上位に立とうとして「評価」の言葉を与え、求められてもいないアドバイスを与え、聞かれてもいない自分の物語をまくしたてる。
 この習性をべつの習性に——共感的に聞くという習性に起きかえられたとき、そこには競争原理では決して得られることのないおたがいを大切にしあう豊かなつながりの質が生まれるし、競争しなくても人は本来の能力をのばしていけるのだということにも気づくだろう。