2012年2月28日火曜日

2月28日

◎今日のテキスト

 うとうととして目がさめると女はいつのまにか、隣のじいさんと話を始めている。このじいさんはたしかに前の前の駅から乗ったいなか者である。発車まぎわに頓狂《とんきょう》な声を出して駆け込んで来て、いきなり肌をぬいだと思ったら背中にお灸のあとがいっぱいあったので、三四郎の記憶に残っている。じいさんが汗をふいて、肌を入れて、女の隣に腰をかけたまでよく注意して見ていたくらいである。
 女とは京都からの相乗りである。乗った時から三四郎の目についた。第一色が黒い。三四郎は九州から山陽線に移って、だんだん京大阪へ近づいて来るうちに、女の色が次第に白くなるのでいつのまにか故郷を遠のくような哀れを感じていた。それでこの女が車室にはいって来た時は、なんとなく異性の味方を得た心持ちがした。この女の色はじっさい九州色であった。
 三輪田《みわた》のお光《みつ》さんと同じ色である。国を立つまぎわまでは、お光さんは、うるさい女であった。そばを離れるのが大いにありがたかった。けれども、こうしてみると、お光さんのようなのもけっして悪くはない。
 ——夏目漱石『三四郎』より

◎マインドフルネスについて「いやなこと」

 台所に洗い物がたまっている。洗わなければならない。しかし見たいテレビ番組がある。ゆっくりテレビを見たいので、急いで洗い物を片付けてしまうことにしよう。
 そんなとき、洗い物をしている人は洗い物にまったく意識が向いていない。早くテレビを見たいと気があせっていて、洗い物のことや、洗い物をしている自分自身の存在をほとんど意識していない。意識されていない自分の存在は、自分自身から「無視」され、ある意味「死んでいる」といってもいいかもしれない。
 どちらにしても洗い物をするなら、洗い物をしている自分自身も大切に意識してやりたい。それがマインドフルネスということだ。「いまここ」にある自分自身を丁寧に扱ってやること。これが基本である。

0 件のコメント:

コメントを投稿