2012年2月26日日曜日

2月26日

◎今日のテキスト

 従《じゅ》四位下《いのげ》左近衛少将《さこんえのしょうしょう》兼越中守《えっちゅうのかみ》細川忠利《ほそかわただとし》は、寛永十八年辛巳《しんし》の春、よそよりは早く咲く領地肥後国《ひごのくに》の花を見すてて、五十四万石の大名の晴れ晴れしい行列に前後を囲ませ、南より北へ歩みを運ぶ春とともに、江戸を志して参勤《さんきん》の途《みち》に上ろうとしているうち、はからず病にかかって、典医の方剤も功を奏せず、日に増し重くなるばかりなので、江戸へは出発日延べの飛脚が立つ。徳川将軍は名君の誉れの高い三代目の家光で、島原一揆《いっき》のとき賊将天草《あまくさ》四郎時貞《ときさだ》を討ち取って大功を立てた忠利の身の上を気づかい、三月二十日には松平伊豆守《まつだいらいずのかみ》、阿部豊後守《あべぶんごのかみ》、阿部対馬守《あべつしまのかみ》の連名の沙汰書《さたしょ》を作らせ、針医以策《いさく》というものを、京都から下向《げこう》させる。続いて二十二日には同じく執政三人の署名した沙汰書を持たせて、曽我又左衛門《そがまたざえもん》という侍《さむらい》を上使につかわす。大名に対する将軍家の取扱いとしては、鄭重《ていちょう》をきわめたものであった。島原征伐がこの年から三年前寛永十五年の春平定してからのち、江戸の邸《やしき》に添地《そえち》を賜わったり、鷹狩《たかがり》の鶴《つる》を下されたり、ふだん慇懃《いんぎん》を尽くしていた将軍家のことであるから、このたびの大病を聞いて、先例の許す限りの慰問をさせたのも尤《もっと》もである。
 ——森鴎外『阿部一族』より

◎現代人のストレス対策

 私たちは精神的にも肉体的にも、毎日、たえず数多くのストレスにさらされている。これにたいし「打たれ強さ」を作ろうという考え方もある。教育現場やスポーツ指導の場などでよく見られるが、強いストレスをあたえて耐性を作ろうという考え方だ。ある意味では有効な方法だが、音読療法ではその考え方は用いない。
 ストレス耐性を強くするには感受性の一部を鈍磨させる必要がある。そうではなく、繊細で柔軟な感受性をそこなうことなく、逆にそれを育みながら、「ストレスに対処できるスキルを持つ」という考え方だ。
 その方法の入口に呼吸法があり、瞑想があり、マインドフルネスがある。

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